HOME | 「宗祖覚恵上人」略伝【2】

中山身語正宗のあゆみ

中山身語正宗のあゆみ

「宗祖覚恵上人」略伝

長崎県御厨(みくりや)のお住まい跡

長崎県御厨(みくりや)のお住まい跡

【2】辛苦の中の流転 〜定められた使命〜

 成人してからも、定められた使命のある松太郎に職は定まりません。仏様から万人を救っていかなければならない大きな使命があることを幼い頃より告げられていても、何をどうしたらよいのか分からず困惑するだけでした。また、お堂や神社に足を運んでは手を合わせるという信心深い行動も、熱心なあまり周囲から理解されませんでした。
 そんな月日が流れた明治26年、松太郎は、地元で神聖な場所と敬われている坊住山霊々石(ぼうじゅうざんたまたまいし)にて、後に本宗の根本所依(こんぽんしょえ)の聖典となる「御座文(おざもん)」を仏様から授かります。

 明治27年、広瀬チエと結婚したのち、海軍の宿舎建設に従事するために長崎県対馬に渡ります。宿舎建設終了後も対馬に残り、炭焼きや木挽(こびき)などで生計を立てますが、熱心にお参りをする生活は、それまで同様変わることはありませんでした。

 明治34年には松太郎一家は、コレラの流行から逃れるためにやむをえず、長崎県松浦市御厨(みくりや)に移住します。炭を焼き、畑を耕し、妻の実家の家業である売薬の手伝いをして、妻チエと4人の子供を養いながら、お行に励む日々は続きました。
 しかし明治43年、松太郎は長女のムクと死別したばかりでなく、自分の生業で蓄えていた炭俵500俵という財産を火災で失ってしまいます。そこで、生活を立て直すために選んだ道は、漁師として身を立てようと単身で長崎県の平戸に渡ることだったのです。