平成30年・バックナンバー

平成30年1月
第1部 菩薩の道

学びの森



①菩薩とは何か
 このコーナー「学びの森」は、仏教用語の正しい理解を通して学びを深め、日々の信仰生活を実り豊かなものにしていただきたい、という趣旨から連載をさせていただきます。今回から、第1部を「菩薩の道」と題し、大乗仏教で注目を浴びるようになる「菩薩」のあり方について学ばせていただきたいと思います。

 私たちが日々お唱えする『おさづけ』の第五条には「……日々さずかるお仕事は、大小上下によらず、之(これ)仏様より授かりたる菩薩の浄行なりと悟り、一事一物に対しても、報恩感謝の念を以て精進努力する、之即ち身語正行者、真の菩薩なり」とあります。

 信心の道しるべである『おさづけ』を正しく実践していくためには、「菩薩」とは何か、そして「菩薩の浄行」とは具体的に何をどうすることなのか、をよく理解しておくことが大切です。そこで、まずは「菩薩」という言葉の意味から見ていきましょう。

 菩薩(ぼさつ)とは、古代インドの原語「ボーディ・サットヴァ(サンスクリット語)、ボーディ・サッタ(パーリ語)」を漢訳した「菩提薩埵(ぼだいさった)」を略した言葉とされます。菩提とは「悟りの智慧」、薩埵とは「生命あるもの(衆生)、心を持つ生きもの(有情《うじょう》)」を表し、事典には「無上菩提を求め、衆生を利益し、諸波羅蜜の行を修めて、未来に仏の悟りを開こうとする者」と定義されています(中村元編『総合佛教大辞典』法蔵館)。

 もともと「菩薩」という言葉は、仏教の開祖である釈尊が、過去世で何度も生まれ変わっては修行を重ね、燃灯仏という仏様から「次に生まれてくる時あなたは仏に成るだろう」と予言され、この世で悟りを開いて仏陀(ブッダ「目覚めた人」)となるまでの呼び名を表していました。『ジャータカ』という作品には、飢えた虎に身を捧げるなど、釈尊のさまざまな前世物語が語られています。

 釈尊在世当時の仏教(初期仏教)では、出家して厳しい戒律を守り、瞑想修行によって煩悩を滅し「阿羅漢」という位に達することを目指しましたが、偉大な釈尊のように仏陀そのものにはなれないと考えていました。しかし紀元前後、大乗仏教運動がさかんになると、「人はみな生まれながらに仏となれる性質(仏性《ぶっしょう》)を持っている」という説が支持され、「心そのものは清浄だが、外から塵のように煩悩が付着して汚されている(自性清浄心《じしょうしょうじょうしん》 客塵煩悩染《きゃくじんぼんのうぜん》)」と説かれるようになります。そして、出家・在家にかかわらず、悟りを求めて菩提心をおこす修行者は、すべて「菩薩」と呼ばれるようになりました。これは、釈尊の成道によって一切衆生にも成仏への道が開かれたとするもので、釈尊の誓願によって生まれた「願生(がんしょう)」の菩薩ということになります。

 さらに、仏陀の教説を聞き四諦八正道を修行する者(声聞《しょうもん》)や、独りで十二因縁を観察して悟りを開く者(縁覚《えんがく》)のように、自分だけの悟りにとどまるのではなく、上に向かっては菩提を求め(上求菩提《じょうぐぼだい》=自利)、下に向かっては衆生を教化する(下化衆生《げけしゅじょう》=利他)大乗の修行者は「菩薩摩訶薩《ぼさつまかさつ》(菩薩大士)」と呼ばれ、その悟りは「最高の悟り(無上菩提=阿耨多羅三藐三菩提《あのくたらさんみゃくさんぼうだい》)」とされました。観音菩薩や地蔵菩薩のように、如来が私たち衆生を救うために仮に菩薩の姿で出現されている場合もありますが、龍樹菩薩や行基菩薩など、祖師高僧で「菩薩」の称号をいただかれている例もあり、本宗の宗祖覚恵上人も「大菩薩」と呼称されています。菩薩とは、単に悟りを目指すだけの存在ではありません。私たちのめざす「真の菩薩」とは何かを、これからともに探究してまいりましょう。(棟髙)



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