令和2年・バックナンバー

令和2年1月
第3部 菩薩行を説く経論

学びの森



 ③十住毘婆娑論(2)
 今回から、『十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)』に説かれている内容をご紹介させていただきます(なお、以下は、『こすもす』紙上で連載させていただいた内容をもとに一部改変しております)。

 

 生死の苦海をさまよう私たち衆生を見るに見かねて、龍樹は大乗菩薩道の要諦を説き示されました。私たちが目指すのは初地に入ることです。初地とは必定(ひつじょう)地とも言われ、信心が定まって歓喜する不退転の境地であり、如来の家に入る(聖者の仲間入りをする)ことにも喩えられます。では、どうしたら初地に入れるのでしょうか。

 

 釈尊でさえ

 高野山から帰郷された宗祖上人が、人助けの意欲に燃えながらも現実の生活苦などから自信と信念を失いかけておられた時のことです。釈迦如来が枕元に立たれ、このような場面を見せていただきました(以下『宗祖上人伝』183-186頁を参照)。

 

 一人の若い修行者が、やつれた姿で険しい檀特山の山道を降りていました。その時、ボロボロの衣を身にまとい、破れ笠をかぶった白髭の老僧が道を登ってきて出会いました。すれ違いざまに老僧がカラカラと高笑いすると、若い修行者は嘲笑されたとばかりに怒りをぶつけようとしました。そのときです。

 老僧が問いかけます。「このやつれた姿を笑うとはなんと失礼なやつだ、と思っておられようが、そのみすぼらしい姿を見て笑ったのではない。あなたは何のためにこんな険しい山に登り、そんな姿になられたんじゃ」

 そこで若い修行者が、「私は道を求め、悟りを開き、迷う衆生を救いたいと決心して山に登り、六年も苦行を続けました。しかしどうしても悟りが得られません。到底自分のようなものではだめだと思い、山を下っていたのです」と話すと、老僧はまた高笑いし、

 「どうでもこうでも、一切衆生のため、悟りを開き、助けにゃおかんという一大決心、見事な心の錦の衣が、ずたずたにちぎれてしまっている。それがおかしくて笑ったのじゃ。それくらいのことで、どうして諸万の衆生を助けられようぞ。後に続け」とたしなめます。 この言葉にひきずられ、若い修行者は老僧の後に従い、再び山を登っていったのです。

 この若い修行者こそ、後の釈尊その人でした。釈尊は、「私にもこんなことがあったぞ、ゆるむなよ、たゆむなよ」と宗祖上人を励まされたのです。

 

 一般に釈尊は「無師独悟」と言われ、独力で修行を究めて悟りを得たとされています。「釈尊は特別に偉大な人で、誰にも頼らず悟りを得た超人なのだ。私たちには到底、釈尊のまねは出来ない」と考える弟子も多く、初期仏教では仏はこの世に釈尊一人のみで、どんなに修行をしても釈尊と同じ境地に達することはできないと考えられていました。

 しかし、この檀特山のエピソードは、釈尊でさえ自力ですんなりと悟りを開いたわけではなく、むしろ修行に挫折してボロボロになり、自己の非力や限界をとことん思い知らされたところを、先達の仏様に叱咤され、励まされ、導かれながら苦心して悟りを開かれたということを物語っています。

 

 どうしたら初地に入れるのか

 「第二の釈迦」と言われる龍樹も、同じように考えました。仏様のお力を頼りに進むしか道はないのです。しかし、それは自分では何もせずにおまかせするということではありません。本論では「仏力(ぶつりき)を得ることができるから、無上菩提心をおこすこと(発願)ができ、初地に入ることができる」と説かれ、仏力を得るためには、以下の八つ(八法)を積み重ねて行くことが大切だと示されています。

 

 ①厚く善根を種える 善根とは不貪・不恚・不痴であると説かれます。私たちが日々お唱えする「懺悔文」では、過去から積み重ねてきた貪・瞋・痴の三毒を懺悔します。貪とは欲の上にさらに欲を重ねるむさぼりの心(貪欲)、瞋とは激しい怒りの心(瞋恚)、痴とは不平不満の心(愚痴)のことです。この三毒からあらゆる煩悩が生じるため、「十善戒」でも「不慳貪・不瞋恚・不邪見」と説かれて戒めています。不貪・不恚・不痴も同じ意味で、貪りの心、怒りの心、不平不満の心を戒めなさいという教えです。

 ②善く諸行を行ずる 慚(ざん)・愧(き)・多聞(たもん)・精進(しょうじん)・念・慧(え)・浄命浄身口業(じょうみょうじょうしんくごう)の七つを持戒することです。慚とは自らに対して、愧とは他人に対して恥じる心です。み仏の教えに照らし、自身に照らし、過ちを恥じるのです。多聞とは教えを何度も聞くことです。「精進・念・慧・浄命浄身口業」は、八正道のうちの正思・正語・正業・正命・正精進・正念に相当します。精進は怠け心をなくして善を円満成就させ、念は正しい気づきをもたらし、慧は何が正しく何が間違っているかを見極めさせます。浄命浄身口業とは、正しい身業(不殺生・不偸盗・不邪婬)と正しい口業(不妄語・不綺語・不悪口・不両舌)を整え、清らかな生活(浄命)をすることです。

 ③善く資用を集める 資用とは仏道成就の材料で、ここに説かれる八法のことです。

 ④善く諸仏を供養する 真心からお花やお線香、生活の資などを供養することです。

 ⑤善知識に護られる 善知識のよき教導を受けることです。

 ⑥深心を具足する あらゆる善を願い、み仏を深く信じる心を持つことです。

 ⑦悲心あって衆生を念ずる 衆生を憐れみ、苦しみ悩みを取り除こうとすることです。

 ⑧無上の法を信解する 仏法を学び良く理解した上で信奉することです。

 

 この八つを積み重ねて行くことが重要とされますが、完全に実行するのは大変です。しかし、行じてみようと精進努力することが大切で、「自分には難しい、とても無理だ」と実感するときがあっても、たゆまず、ゆるまず、仏様を頼りにすがっていくことです。

 自己の浅ましさを深く思い知るからこそ、ありがたさが実感できます。「仏法の大海は信をもってよく入ることができる」と仏典に説かれますが、仏様に向かう信こそが、仏法という大海へと漕ぎ出す大きな拠り所になるのです。(棟高) 



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