中山身語正宗

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平成30年07月

第1部 菩薩の道 

⑦六波羅蜜(5)禅定

 今回は、禅定(ぜんじょう)波羅蜜のお話です。「禅定」という言葉は、インドのサンスクリット語「ディヤーナ」を訳したもので、禅定波羅蜜のことを禅那(ぜんな)波羅蜜とも言います。

 「禅定」は、「瞑想する」という原義を持つ「禅」と、「瑜伽(ゆが)」(ヨーガ)や「三昧(さんまい)」(サマーディ)を意味する「定(じょう)」との合成語で、「静慮(じょうりょ)」とも訳されます。心静かに瞑想して真理を観察し、揺るぎない安定した身心を確立することで、禅定によって散乱(さんらん)(落ち着かない心)が対治されます。

 伝統的な仏教の瞑想修行には、以下のような二つの形があります。

 ①止(し)(シャマタ〔サマタ〕)…心を特定の対象に結びつけ、精神を統一すること

 ②観(かん)(ヴィパシュヤナー〔ヴィパッサナー〕)…統一した心で法を観ること

 精神を統一するには、腹に力を込め、臍下丹田(せいかたんでん)に気を集中して呼吸を繰り返し、心を特定の対象に結びつけるのが早道とされます。そうしていくうちに、次第に心の働きが静まり、何も考えず、あらゆる「はからい」がなくなる境地を得ることができます。そして、この境地を得ることで、法(真理)をありのままに観ることができるようになるのです。この止と観とをともに修めることで、禅定という心の安定が達成できます。

 仏典では、何か外界から刺激を受けたとき、「見ている」「聞いている」に意識を注ぎ、何を見ているか、何を聞いているかという中身の判断をしないようにする訓練が大切であると説かれています。この訓練によって、外界の刺激に対してすぐに感情的な反応をしてしまうことがなくなり、感情のコントロールができるようになるのです。

 見ているときに「見ている」と気づき、聞いているときに「聞いている」と気づくことが「無分別智」の実践であると言われます。たとえ罵詈雑言を浴びせられているときでも、その内容自体に反応しなければ、怒りの感情は生じません。このような禅定の訓練は、そのまま分別を離れる訓練でもあり、次回ご説明する智慧波羅蜜にも直結していきます。

 釈尊伝をひもときますと、悟りを求めて出家した釈尊が最初に行ったのが、二人の師のもとでの瞑想修行でした。そして「非想(ひそう)非非想(ひひそう)処」という無色界の最高の境地(有頂天)を究めますが、これでは悟りが開けませんでした。そこで深い森林に入り、肉体の限界まで挑む断食や難行苦行を六年間続けますが、それでも悟りは得られませんでした。苦行を捨て乳粥で体力を回復した釈尊は、沐浴して体を浄め、菩提樹下での瞑想修行に入りました。釈尊は成道の日、まず四禅定を修し、初夜分において宿命通(しゅくみょうつう)(自己と他者の前世を知り尽くす神通力、宿住念智とも言う)を、中夜分において天眼通(てんげんつう)(未来の衆生の死と生を見通す神通力、死生智とも言う)を、そして後夜分において漏尽通(ろじんつう)(煩悩を滅し尽す神通力、漏尽智とも言う)を獲得し、最後に十二因縁の観察によって無上の悟りを開くことが出来たとされています(諸説あり)。禅定の修行は、釈尊の悟りの鍵を握っています。

 四禅定は仏教以前からインドで行われていた修行ですが、以下のような四つの段階から成り、釈尊が神通力を獲得する上で基礎となったと考えられ、大変重視されました。

 ①初禅…尋(対象に心を向ける働き)・伺(対象を詳しく観察する働き)によって心が落ち着き、喜(欲望を離れる喜び)と楽(安楽、リラックス)を感じる状態。

 ②二禅…尋・伺が消えて、禅定から生ずる喜びと安楽を享受する状態。

 ③三禅…通常の喜びを超越した真の喜びを感じ、楽だけに満たされる状態。

 ④四禅…苦楽を超越し、対象との一体感(一境性(いっきょうしょう))だけに没入した状態。

 このような瞑想は心の落ち着きをもたらす上で効果が高く、現在では、企業の社員研修などでも取り入れられています。しかし、瞑想修行にはまた危険な面もあります。神秘体験を得ていくプロセスの中で、潜在意識の中にある劣等感を補償しようと傲慢になったり、自分が偉くなったように感じて他者を支配したりする誘惑が出てきやすくなるようです。 「学べば学ぶほど、行ずれば行ずるほど、わが身のあさましさを思い知るべし」と教えていただきますように、足下に気をつけながらご精進頂きますよう、お願いいたします。(棟髙)

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