中山身語正宗

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平成28年6月

なぜ信仰するの?(4)

「〈おじひ〉の親」たるみ仏と、本当に出会うために

おじひ〉に対するイメージは、少し固まりましたでしょうか。

神仏は、わたしたちに〈おじひ〉を授けて下さる存在である。そして授けていただく〈おじひ〉は、わたし自身の至心の問いかけに対して授けていただける。だからこそ、わたしが「どのように問いかけていくか」が最も重要だ、といわれます。中山身語正宗の信心(宗教的な実践)では「要は願うそなたの胸次第なり」と説かれるところが、そのことを表しています。

では「どのように問い」「どのような胸(ものの見方、考え方)」になっていけばいいのでしょうか。本宗では、人間は「せっぱつまった土壇場」に立たされた時、自(おの)ずからたった一つを望む強い胸中になるものだ、といいます。しかし、現代の日本社会の中で、この「せっぱつまった土壇場」は、どのように現れてきているのでしょうか。ここが非常に微妙になってしまっているように思われます。

なぜ微妙になっているかというと、「せっぱつまった土壇場」に置かれたはずのお方の精一杯の叫びが「ひそやか」な形でしか行われなかったり、それを聴き取ってしかるべき人々が十分に耳を傾けてくれなかったりしている現実があると指摘されることからも十分窺い知ることができます。

仏教という信仰は、「あるがまま」を「あるがまま」に見ることを大切にしようとする信仰です。ならばきっと「せっぱつまった土壇場」の人々に対しては、その悩み、苦しみ、迷い、辛さなどを素直に訴えていい、といってくれるのではないでしょうか。

中山身語正宗では、「どのように問い」「どのような胸中になっていけばいいのか」という問いに対して「三歳児(みつご)・赤子になって」と答えています。そこでいわれていることは、三歳児・赤子には「おれが、われが」という計らいがなく、自分の置かれた現状を素直に受け入れ、その時本当に「せっぱつまった土壇場」と実感したら、精一杯周りの人々に訴え、神仏にもすがりきるだろう、と確信しています。こうした素直さを「大事にしたらいい」と教えていただいているのです。

神仏は、人間のそうした素直な姿に必ず共感して下さり、それ故に〈おじひ〉を授けて、「・・・せよ」とその時のわたしがなすべきことを教えて下さる、というのです。すなわち「要は願うそなたの胸次第」の胸とは、三歳児・赤子のあの計らいのない素直な胸のことだったのです。

中山身語正宗の信心では、「今」「ここに」「このようにして」いる自分自身の姿を「あるがまま」に見よ、といわれる仏教本来の視点が大切にされています。こうした本宗の「ものの見方、考え方」は正(まさ)しく仏教本来の立ち位置に立つものであったのです。こうした事実を踏まえることで、本宗が「仏教の大道」をゆく信心であったという自負も生まれてきます。

三歳児になって、赤子になって素直に、謙虚に、一途に〈おじひ〉の親たるみ仏に「すがって、すがって、すがりきろう」とするわたしたちを、本宗の教主(教え主)たるみ仏は、心より憐れみ、愛おしみ、ただただ見守り、導いてやりたいと願って下さるのです。こうしたみ仏の思いが具体化した時は、み仏は自らのことを「根本大悲の親(自らの働きの根本として悩み、苦しみ、迷う衆生に対してひたすら共感し、寄り添って、親のように慈しみ、助け、導いてやりたい)」と名告(なの)って下さったのです。

中山身語正宗において「なぜ信仰するの」という問いかけに対する答えは、自分の置かれた現実の中に真の導きを得たいと願うわたしが、〈おじひ〉の親たるみ仏に嘘、偽りではなく、本当に会える体験ができるからです。(乘慶)

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