中山身語正宗

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平成28年3月

なぜ信仰するの?(1)

信仰をすることでわたしたちは、一体どのような「生き方」をしたいと思っているのでしょうか。そもそも、人間が生きていく上で「信仰する」ことが本当に必要なのでしょうか。近年、宗教をめぐる話題が次々に報道されています。こんな現代だからこそ、今一度「信仰」とは何なのかをご一緒に考えていきませんか。

「いかに生きるべきか」を問いながら生きる

わたしたち一人ひとりは、自分の身体の中に1つの「いのち」を授かって「今」「ここに」「このようにして」生きています。これは決して人間だけではありません。すべての生き物は、必ずその体の中に1つの「いのち」を授かって生きています。ですから仏教では、すべての生き物は等しい存在だとして「一切衆生」と呼んできました。すなわち、一切衆生の中には、人間を始めとするすべての生き物が含まれています。

この生き物の中には、動物、植物と分類される「生物」の他にバクテリアなどの「微生物」もあります。伝統的な仏教の考え方では、「衆生」と呼ばれる生き物は動物だけを指すのが普通です。しかし動物といっても実に多種多様です。そこでわたしたちは、次の様に考えてきました。
生き物の体の中にある「いのち」は、それを持っている体だけが生きられるので、他の体が別の体の中にある「いのち」を生きることは決して出来ません。

では、生き物は、自分の「いのち」をどの様に生きようとしているのでしょうか。この「いのち」の生き方には、2つあることが知られています。すなわち①自分のいのちを「いかに生きながらえさせるか」という生き方。②は、自分のいのちを「いかに生きるか」という生き様として考える生き方です。
すべての生き物は、必ず①の生き方をしています。そのため、食べて寝て、子孫を殖やして種の存続を計っています。しかし、人間以外の生き物は、どうやら②の生き方には、ほとんど関心を向けることがないようです。

人間は、どの様にして生きるか、どんな生き方をして一生を造っていこうかという②の生き方に強い関心を示してきました。そして、ことばを話し、道具を造り、文字を発明して、自分たちのしてきたことを記録してきました。こうした人間の営みが文化を生み出し、文明を築いていくことになったのです。
ことばを使うようになった人間は他の動物とは違って、「わたし(第一人称)」「あなた(第二人称)」「かれら(第三人称)」という人称の概念を手に入れ、更に「今(現在)」「以前(過去)」「これから先(未来)」という時制という概念も駆使するようになったのです。

こうした人間のこころの働きは、「ものの見方、考え方」として整理されることになります。
こうした「ものの見方、考え方」の深まりと拡がりに伴って、動物たちの「五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)」だけに基づく生き方とは異なった、五官プラス「意(こころ)」に基づく生き方をするようになったのです。
パスカルは、「人間は考える葦である」といっています。この考えるというのが「こころ」の働きであり、そこから導き出されてきたものが「ものの見方、考え方」なのです。

人間が最も関心を向けた②いかに生きるべきかは、まさしく人間が考える「こころ」を持ったことから生み出された、最も人間らしい生き方だったのです。
わたしは、自分の授かった「いのち」を「いかに生きるべきか」。一体どのような生き方をして、自分の一生をどのように造りあげようとしているのか。
人間は、この問いかけに答えるべく哲学し、文学などの芸術を生み出し、宗教に基づく生き方を自らの生き方にしていこうとしたのです。
信仰するということは、実はわたし自身が「いかに生きるべきか」を問う生き方をすることだったのです。(乘慶)

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