中山身語正宗 瀧光徳寺|学びの森

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平成30年8月

第1部 菩薩の道 

⑧六波羅蜜(6)智慧

 今回は、般若波羅蜜のお話です。「般若」という言葉は、インドのサンスクリット語「プラジュニャー」(パーリ語でパンニャ)を音写したもので、仏の智慧を指しています。般若波羅蜜は、智慧波羅蜜、慧波羅蜜とも言い。智慧(般若)によって、無明(愚痴、愚かさ)が対治されます。

 現代社会では、学校教育を通して科学的・合理的なものの見方が推奨され、知性や理性が重視されます。しかし人生の難題にぶち当たり、苦境にさらされる時、世間的な常識や論理では問題を解決できず、仏様に頼らざるを得なくなります。

 仏の智慧は、言葉による分別を離れた、あるがままに物事の本質をつかむ直観的な知性とされ、「無分別智」と言われます。ふだん私たちは言葉を使ってすべてを理解しようとしますが、仏の智慧は奥深く、言葉による分別では捉えられず、思議すべからざるもの(=不思議)であり、悟りの世界は言葉で表現できないと言われるゆえんです。

 仏の智慧の世界から見れば、たとえば出家主義の初期仏教で禁じられていた戒律に対する解釈も変わります。禁欲への過度な執着もまた煩悩であり、正しい欲望ならば肯定すべきという立場が認められるのです。大楽思想が説かれる『般若理趣経』では、性的欲望さえも否定の対象ではありません。出家主義に基づく立場からは、肉食妻帯が許されている日本仏教は本来の仏教ではなく堕落していると批判されますが、大乗仏教の本質から見れば、決して本筋を外れているわけではないのです。

 現代に生きる私たちは、言葉を離れては社会生活が営めなくなっています。本を読んだり、話し合いをするなど、言葉を使えば使うほど、知性や教養は広がりますが、活字中毒とも言える現象の中で、言葉による妄想や煩悩もまた増大します。これを仏教では「所知障」と言い、「煩悩障」と並んで悟りを妨げる要素とみます。学問を積むことは大切ですが、あまり理論・理屈ばかりが先行すると、実践が伴わなくなり、心の平安はかき乱され、修行の妨げになることが多いためです。

 仏道における学とは、知識を広げることではなく、我執を離れることを学ぶのです。宗祖上人は、「学べば学ぶほど、自分がなんと知らないのか、あさましいのかを学ぶのだ」と説かれました。我執を離れることで般若の智慧に近づけるからです。仏典には「般若は禅観(三昧)によって得られる 」と説かれていますが、これも禅観を通して三昧に入り、我執を離れるためと言えます。

 本宗では、ただひたすらお念仏を称えるおすがりの行や、お百度、お瀧、古四国巡拝などの身体行が実践されます。これも、三昧の境地を得るための修行です。「三歳児や赤子になる」という境地は、容易に達成できるものではありませんが、計らいや疑い、不安、迷いが混じりながらも、恥ずかしさやプライドを捨て、行そのものの中に身を投じ、仏様にすべてをゆだねていこうと精進するなかで、自分というものを意識する心(我執・我欲)が徐々に削がれていき、やがて三昧の境地が体感できるようになります。自分が念仏を称えているのか、念仏が自分に称えさせているのか、主体や客体が消失し、分別や意識から自由になれる境地です。このような三昧行を通して、仏の智慧、無分別智が開かれてゆくのです。

 そして、このような般若波羅蜜の行は、決して自分だけの世界で閉じてしまうものではなく、周囲にいる他者にも開かれていくものです。六波羅蜜が菩薩の自利行的な修行だとすれば、般若波羅蜜をさらに展開させた、方便波羅蜜、願波羅蜜、力波羅蜜、智波羅蜜の四波羅蜜は、衆生済度のための利他行的な修行を表していて、あわせて十波羅蜜と言われます。

 方便(ウパーヤ)とは、嘘のことではなく、社会的・現実的な救いのためのあらゆる手立て、手段のことです。願(プラニダーナ)とは、本宗では「宗祖のご本願」がありますが、衆生済度への強い思いから出る誓願のことです。力(バラ)とは、衆生済度のためのあらゆる神通力のことを言います。最後の智波羅蜜は、六番目の慧波羅蜜とは区別され、衆生を具体的にお救いするあらゆる実際的・実践的な智慧のことを指しています。(棟髙)

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