中山身語正宗

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平成30年5月

第1部 菩薩の道 

⑤六波羅蜜(3)忍辱

 今回は、忍辱(にんにく)波羅蜜のお話です。「忍辱」という言葉は、インドのサンスクリット語「クシャーンティ」を訳したもので、忍辱波羅蜜のことを羼提(せんだい)波羅蜜とも言います。

 「忍」は、耐える、静かに保つという原義に由来しますが、「忍辱」という言葉には「誹謗(ひぼう)者や迫害者によって加えられる危難や侮辱に対して、心を動かすことなく耐え忍ぶ」という意味があります。忍辱によって瞋恚(激しい怒りの心)が対治されます。

 古代インドでは、苦しみを耐え忍ぶことによって身体に熱力(=タパス)が蓄えられ、これが修行を進める原動力となって神通力の獲得につながるとされ、さまざまな行者が苦行を実践していました。

 忍辱の行は、数ある苦行の中でも「最高の苦行」と言われ、対人関係の中での修行になります。山奥に籠もって孤独に耐えるよりも厳しく、世俗に混じってこそ成就できる大乗仏教ならではの実践徳目です。

 大乗仏教の論書では、この忍辱波羅蜜は、以下の三つの観点から説明されています。

 ①安受苦忍(あんじゅくにん)…この世のことを娑婆(しゃば)世界と言いますが、娑婆とはインドの原語「サハー」を音写した言葉で「忍耐」という意味を持ち、「忍土(にんど)」とも訳されます。暑さ、寒さ、飢え、渇きなど、等しく耐えなければならない苦に加えて、生老病死の四苦に、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)(五取蘊苦(ごしゅうんく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく))を加えた八苦、予期せぬ災害やアクシデントなど、この世にはあらゆる苦しみが満ちあふれています。
 このような苦しみを安んじて受け容れること、これが第一の忍辱行です。

 ②耐怨害忍(たいおんがいにん)…世の中では、自分では悪いことはしていないつもりなのに、妬(ねた)みや嫉妬(しっと)を受けたり、種々の要因から恨まれたり、悪意を受けたりすることがあります。そして、誹謗中傷され、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられ、いじめを受けたりする場合もあります。しかし、「怨みは怨みによって止むことはない。怨みを捨ててこそ怨みは止む」という釈尊の言葉(『法句経』)のように、このような時こそ、激しい怒りの心を捨て去る忍耐力が求められます。
 このように怨みや迫害を静かに耐え忍ぶこと、これが第二の忍辱行です。

 ③諦察法忍(ていさつほうにん)…諦とは「サティア」(真理・真実)のことです。心を落ち着けて、物事のありのままを観察し、一切法の無自性(むじしょう)(=空)を認識するならば、現象として現われてくる苦しみを堪え忍び、乗り越えることができます。これが第三の忍辱行です。

 忍辱の実践は、菩薩行の中心とも言われます。法然、親鸞、日蓮など、日本でも多くの祖師高僧が法難に遭い、これを乗り越えて宗を発展に導かれました。ただひたすら衆生済度に奔走されていた宗祖上人も、「キツネつき、ヤコつき」などと誹謗され、「ほいと(=乞食)」と蔑(さげす)まれ、官憲による厳しい取り締まりを受けました。

 敵対者の存在は、一見すると無意味に思えます。正しく仏道を歩んでいるのに、なぜこんなことが起こるのか? 疑いや計らいがわき起こり、信仰を続ける気力も萎えてしまうかもしれません。

 しかし「見るもの聞くもの、すべて〈おじひ〉にあらざるものなし」と教えていただきます。私たちは、まことの菩薩の道を歩んでおります。敵対者のおかげで忍辱波羅蜜の行を成就できるならば、敵対者にさえ感謝しなくてはなりません。釈尊は、教団を引き裂き自らに反逆した悪人の提婆達多(ダイバダッタ)こそ我が善知識なり、と説かれました。イエス・キリストは「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と説かれました。「病一つが善知識」という宗祖上人のお言葉もあります。普通なら感謝できないような苦しみにさえも、信仰を深め、仏道成就を促す機縁と捉え、感謝を見いだすのが、まことの菩薩の道です。

 「私ほどあさましい者は、も一人とほかにない」と自覚して、すべてを仏様におまかせするならば、我欲・我慢は打ち砕かれ、どのような苦も受け容れ、感謝の心でいただくことができるようになります。忍辱行は菩薩道の中心であることを悟り、精進させていただきましょう。(棟髙)

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