中山身語正宗

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令和2年10月

第4部 さまざまな仏


④釈迦如来

 今回は釈迦如来について、お話しさせていただきます。

 本宗でも古四国第一番札所として、根本中堂にお祀りされている釈迦如来ですが、釈迦とは実在した仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)のことです。正式な生没年代(諸説あり、現在では遺跡の発掘などにより紀元前7~6世紀頃と推定される)は不明ですが、二千五百年前とも三千年前とも言われ、釈迦族の聖者という意味から、釈迦牟尼世尊(略して、以下「釈尊」)とも呼ばれます。

 釈尊在世時の初期仏教(原始仏教)、仏弟子を中心とする部派仏教、その系譜を引く東南アジア中心の上座部仏教(テーラヴァーダ)では、仏といえば、釈尊ただ一人です。一方、大乗仏教では、さまざまな仏が説かれるようになります。

釈尊の生涯

 ヒマラヤの麓ルンビニで、北インドの小国シャーキャ(釈迦)族の浄飯王(スッドーダナ)と摩耶(マーヤー)夫人の間に生まれたゴータマは、生後1週間で生母を失いますが、王子として物質的には恵まれた生活を送ります。やがて妻(ヤソーダラー)を娶り、一子(ラーフラ)をもうけますが、生老病死の苦からの解脱を求めて29歳で出家し、まずは瞑想の師に就いて修行しますが、その境地に満足できず、6年にわたる苦行を続けます。しかし、どうしても悟りを開くことができずに苦行を断念、村娘スジャータの供養する乳粥をいただいて体力を回復し、森林から出てナイランジャラー川(尼連禅河)で沐浴の後、菩提樹の下で「悟りを開くまでは、この座を決して離れない」と誓って瞑想に打ち込み、悪魔の誘惑に打ち勝って、仏陀(ブッダ=覚者)となりました。35歳のことでした。

 49日間、悟りの境地を楽しみますが、ヒンドゥー教の最高神ブラフマーが現れ、「あなたの悟った境地を何とか言葉で説き示してほしい」と三度にわたって懇願します(梵天勧請)。悟りの境地は言葉では説きがたいため、ためらっていましたが、いよいよ布教を決意し、ヴァーラーナシー近郊のミガダーヤ(鹿野苑)へ向かいます。ゴータマが苦行をやめたことに軽蔑の念を抱いていた五人の修行仲間ですが、釈尊の人格から溢れ出るオーラのようなものを感じ、説法(初転法輪)によって、まずコーンダンニャが法眼を開きました。釈尊は大いに歓喜し、このとき無量の光明が出現したと伝えられています。仏教誕生の瞬間です。このときの教説が、中道や四諦八正道として伝えられています。

 以後45年にわたり、ガンジス川中流域を中心に法を説き続けた釈尊は、「諸行は無常である。怠ることなく修行に励みなさい」という言葉を遺し、クシナガラで入滅されました。

仏塔崇拝

 釈尊の死後、遺骨である舎利は生きた釈尊と同じくらい功徳があると信じられ、インドの八部族に分けられて八等分されて、仏舎利を納める塔(ストゥーパ:卒塔婆)が建立されました。その後、古代インドを統一したマウリヤ王朝のアシャーカ王によって、仏舎利は再び集められて細分され、インド各地に八万四千ともいわれる多数の仏塔が建てられたと伝えられます。アショーカ王は、その他にも法勅を碑文に残すなど、仏教を深く信奉し、仏教はインド全土に広がっていきました。

仏像の制作

 釈尊は、その偉大さ故に、最初は法輪や仏足石などのようなシンボルでしか表現されませんでしたが、大乗仏教の興起とともに、ギリシャ彫刻の影響を受けた仏像が作られるようになっていきます。

 生前の釈尊は、じつは久遠の昔に仏陀となっていたが、法を説き示す方便としてこの世で仏となったように見せたのだとして、入滅した今でも、なお霊鷲山で法を説き続けているという「久遠実成の釈迦如来」を説き開いたのが『法華経』です。これを受けて『涅槃経』では、「法身常住」の思想が説かれています。

 日本に伝来した釈迦如来像のうち、「生身の釈迦如来」として有名なのが、京都の嵯峨清凉寺の本尊・釈迦如来です。この尊像は、釈尊37歳の生き姿を刻んだ三国伝来の霊像と伝えられます。

 昔、釈尊が生母である摩耶夫人に法を説くため忉利天(とうりてん)にのぼられた時、時の優塡王(うてんのう)や弟子たちは、慈母を失った子供のように嘆き悲しみました。そこで王は毘首竭磨(びしゅかつま)に命じて、栴檀(せんだん)の霊木で釈迦生身の尊像を作らせたのです。90日後、釈尊が戻ってこられ、自分と寸分違わぬこの像をご覧になり、「私が亡き後は、この像が私に替わって衆生を済度するであろう」と、大いに喜ばれました。この像がヒマラヤを経て中国に伝えられ、入宋した東大寺の奝然(ちようねん)(938-1016)が、像を模刻して985年に日本へ持ち帰った、という縁起が伝えられています。

釈尊をたたえる行事

 日本でも、釈尊を慕い、多くの高僧がインドを目指しました。たとえば、実際には適いませんでしたが、日本に臨済宗を伝えた栄西禅師や華厳宗の明恵上人もその一人です。

 明恵上人は釈尊入滅の昔を偲んで四座講式(涅槃・羅漢・遺跡・舎利の各講式)を作成し、真言宗などでも涅槃法要の際に唱えられます。釈尊の事績にちなみ、釈尊の生誕を祝して誕生仏に甘茶をかける仏生会(花祭り)、涅槃会のほか、入滅を迎えた釈尊が弟子たちに最期の教えを説いた『遺教経(ゆいきょうぎょう)』を称える遺教会、悟りを祝する成道会、仏舎利の功徳を讃嘆する舎利会も行われています。

 「南無釈迦牟尼仏」という意味で、「のうまく さんまんだ ぼだなん ばく」というご真言が唱えられますが、比叡山西塔の釈迦堂などでは「おん さるばしちけい びしゅだらに そわか」という真言が唱えられたりもします。(棟高)

(下泉全暁『密教の仏がわかる本』春秋社、2019年、他参照)

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