平成28年・バックナンバー

平成28年11月
なぜ信仰するの? (9)

学びの森



「心安らかに生きる」道を実現するために
 病人と向かい合って「病気を治してあげたい」と思うのか、「病気で苦しむこの人を治してあげたい」と思うのかは、一見よく似ているようですが、よくよく考えてみると大きな違いがあります。現代の医学では、まだまだ完治できない病気が少なくありません。その上、以前すでに克服していたと思っていた病気、例えば結核などが、近年また新たな広がりを見せている。こんな事例を見ていると、病気を全て克服することなど、ほとんど不可能なのではないか、と思わずにはおれません。

 生(自分の思い通りの誕生など望むべくもない)、老(長生きするということは、老いから逃げられないということ)、病(生きている限り病気になることは避けられない)、死(そしていつかわたし達は死を迎える)という四つの出来事は、自分が思い通りにできないこと(これを仏教では"苦"といっています)なのです。

 では、生・老・病・死から逃れることのできないこの身であるなら、その生・老・病・死の中にあっても「心安らかに生きる」道はないものでしょうか。

 仏教において「信仰をする」ということは、実はそれを実現することだったのです。そして、その実現こそが「病人を治す」ということばでいわんとしていたことでもあったのです。

 病気であっても、その病気を治せる可能性がほとんどないと思われるときでも、その病気に負けることなく、しっかり前を向いて、日々を安らかに生き続けるという「生き方」をする。それが、病人を治すということです。

 人には努力すれば道が開けることと、いくら努力しても自分の願い通りにできないことが、はっきりあります。自分の願い通りに何が何でもやり遂げたいと願い続ける「心(ものの見方・考え方)」を捨て、自分の願ったように努力すればなる可能性があることに対して、日々精進努力を怠らず続けるようにすること。ここに仏教的な「信仰をする」目的、意味があったのです。(乘慶)



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