平成28年・バックナンバー

平成28年10月
なぜ信仰するの? (8)

学びの森



中山身語正宗の「慈」と「悲」の実践
 今で言うカースト制度にあたる差別意識が確立されていた、今からおよそ2500年程前の古代インド世界。そこで仏教を開かれた釈尊は、「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい者ともなり、行為によってバラモンともなる」(『スッタ・ニパータ』136)と宣言されました。先天的な差別を否定し、人間の「行為」がさまざまな差別を生むのだと教え諭されたのです。

 縁起して「今」「ここに」「このように」して在るすべてのものに、本来一切の優劣はない、という仏教的ものの見方、考え方が、そこにははっきりと示されています。ですから、仏教では「何をするか」「いかに行動し」「いかに生きるか」を常に問い続けるのです。

 「共生き」するしかない一生物としての人間は、自分以外の人々と共に生きることを大切にしてきました。そうした生き方が「慈・悲」心と、「慈・悲」行として現われてくるのが仏教です。

 み仏は、「大慈」「大悲」の実践者です。そして、わたしたちに対しても、み仏は「慈・悲」心をもって、「慈・悲」行を実践せよといわれます。仏教でいう「慈(マイトリー)」とは、他者に利益や安楽を与えるいつくしみを意味し、「悲(カルナー)」とは、他者の苦に同情し、これを抜済しようとする思いやりを表わす(岩波『仏教辞典』P372)ことばだといわれます。

 共生きをしようとする時、この2つの行いは、とても重要です。中山身語正宗では、この「慈」を「人としてこの世に生まれて何をすることが一番よいことか。それは、親を、ご先祖様を、世の人々をよろこばせることだ」ということばで示していただいています。また「悲」については、「他の人が悩み、苦しみ、迷っている姿を目にし、耳にしたならば、〈どうか、あのお方の悩み、苦しみ、迷いが解決するため、どうすればいいのか教えて下さい〉と、至心にみ仏にすがって、すがって、すがりきるお前になれ」と教えていただいています。

 慈悲の心と実践は、人間だれの中にも生まれながらに備わっています。ただ、それをどのように発動し、実際にどこまで実行していくかが、個々人によってバラバラであるだけです。

 4月14日と16日、熊本地方で大地震が発生しました。

 このニュースを見た多くの人が被災者に心よりそわせ、自分にできる精一杯の援助をされています。まさしく、「慈・悲」心が「慈・悲」行となって発動しているのです。でも、仏様の大慈、大悲は、単に目先の問題に対応するばかりではなく、悩み、苦しみ、迷う人々の真の助かりがどこにあるのかを見据えた確かな働きとして発動されます。

 病気だけを治療する対処法から、病人を真に救い上げようとする対処法へと、幅の広い対応をしていこうとするところに、実は、仏教が真に求めていることがあったのです。(乘慶)



学びの森・バックナンバーはこちら

サイトマップ ページトップへ

Copyright 中山身語正宗 All Rights Reserved.