平成27年・バックナンバー

平成27年9月
宗教学から見た中山身語正宗[7]


行としてのお布施 学びの森

あらゆる執着から離れた三輪清浄の布施行を
本宗の感謝運動では、断食した一食分を浄財に換えて人に施すことを実践します。布施には、お金を施す財施、教えを施す法施、不安を取り除く無畏施(むいせ)がありますが、他にも無財の七施といって、やさしいまなざしや言葉、笑顔、思いやり、座席を譲るなどの親切な行為も布施行になります。今回は感謝運動を通じた布施行の意味について考えてみたいと思います。
人々の救済を目指す宗教では、布施という考え方はとても大切にされます。たとえばイスラームでは、布施(ザカート)は信者の義務です。「ザカート」は「喜捨(きしゃ)」と訳され、もともと年間収入に対して一定の税率が定められた宗教税でしたが、近代的な税制度が整備されるにつれて、自由意志で行われる布施に変わりました。相互扶助の精神が根づいているイスラームでは、貧しい人や困っている人に施しをすることは常識になっています。

たとえばタクシーに乗ってお金が足りなかった時には、何の気兼ねもなく持っている人に払ってもらうのです。施しを受ける側も、施す人が善行を積む機会を提供しているという意識があるので、卑屈になることはありません。むしろ「ありがとう」などと言うと、相手の心に「してあげた」という意識が生じて功徳が逃げてしまうとされます。乞食(こつじき)は決して恥ずかしいことではなく、乞食業という職業さえ立派に成り立っているようです。
一方、仏教では「布施とは捨なり」と説かれます。「捨」とは、心の浮き沈みを離れた平静な心の状態のこと。このような心で行うのが正しい布施だということです。私たちは人に物を施すとき、物をあげているという意識になりがちです。もし相手の人がお礼を言わなかったりすると、「せっかくあげたのに…」という不満の気持ちが芽生えてきます。善行に執着して何らかの見返りを求めてしまうのでしょうか。よいことをしたはずなのに気分が落ち込みます。逆に「ありがとう」と言われると、うれしくて気分が高揚し、人に自慢したいような気持ちが芽生えてきます。このような心の浮き沈みをなくそうとする仏教では、「私が、相手に、物を、与えている」というあらゆる執着から離れた布施を実践せよと説きます。これが、施す人、施す物、施しを受ける相手は「空(くう)」であるとする「三輪清浄(さんりんしょうじょう)の布施」です。このとき、施す人の心は「捨」になっています。ただ相手の必要としている物を惜しみなく施すのです。「捨」という無心の気持ちで施すと、相手が受け取ろうと受け取るまいと腹は立ちません。施すことそのものがありがたく、感謝できるからです。施しを受ける側ではなく、施す本人が「ありがとう」と言えるのです。そして、施したこと自体に執着することもありません。

また仏教では、布施は貪欲(とんよく)を対治(たいち)して慈悲を養う修行法であるとします。貪欲とは、欲しい上にまだ欲しいと思う「むさぼりの心」です。報恩感謝の布施行を積み上げていきますと、相手の喜びは自分の喜びとなり、慈悲の心が育まれていきます。そうすると、次第に「欲しい(=与えられたい)」という心から、「与えたい」という心に変わっていけるのです。感謝運動は、断食を通じて世の人々と幸せを分かち合うことのできる尊い布施行の機会です。正しい心がけで精進して参りましょう。

『こすもす』393号(平成25年9月5日発行)「神仏の輝き」より


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