平成27年・バックナンバー

平成27年7月
宗教学から見た中山身語正宗[5]


瀧 行 学びの森

「死と再生」を象徴的に体験することができる瀧行
修行とは、「精神を鍛え、宗教的理想を宗教体験のうえに実現するために営まれる行動体系である」(『宗教学辞典』)とされます。宗祖上人は、「行とは仏に向かって行くことである」と説かれました。身体行を通じて心を鍛え、仏さまに向かう胸をつくるのです。
本宗の主たるお行のなかに瀧行があります。古来、水は宗教儀礼において重要な役割を果たしてきました。キリスト教の洗礼や、神道の禊(みそぎ)、密教の灌頂(かんじょう)などでも水が用いられます。とくに仏教では、水行(水垢離(みずごり))や瀧行など、水を用いた修行もさかんに行われてきました。水にはどのような意味があるのでしょうか。

古代ギリシャの哲学者タレースは、「水は万物の根源である」と説きました。水は生命の源であり、私たち人間を含む生命体にとって欠くことのできない貴いものです。なお水は無色無臭で、清涼にして汚辱(おじょく)を洗い流し、無形にして方円の器に従い、高いところから低いところへと流れ、万物を潤(うるお)し育むなどの性質を持つことから、仏教経典には、水のもつ功徳が仏の智慧の象徴として説かれています。また来年の大河ドラマにも選ばれた福岡ゆかりの軍師・黒田孝高(よしたか)(官兵衛)は、出家後は「如水(じょすい)」と称し、水のように生きることを規範とされたことが知られています(『水五訓』)。

エリアーデは、水による儀礼はあらゆる形態を壊し再構成することによる再生と変容を象徴的に示すとして「水に浸すということは無形態に戻ることであり、誕生以前の時、創造の始まりの時に戻ることである。……水との接触は生命、再生、形態をとることを象徴する。水は生命を豊かにするものなので、水から出ることは時間と生命の法則に従うことであり、つまり変化し生命が衰えることになる。絶え間ない生命の衰えを止めるためには水による周期的な再生が必要である」と述べています(D・ケイヴ『エリアーデ宗教学の世界』せりか書房)。インドのヒンドゥー教徒が聖なるガンジス川で沐浴(もくよく)するシーンをよく見かけますが、彼らは沐浴を通じて霊的再生を体験しているのです。瀧行もまた、流水がもつ浄化作用によって「死と再生」を象徴的に体験できる行であることが考えられます。

世界中の多くの儀礼が、このような「死と再生」に関わっています。儀礼によって、それまでの罪深い自分が象徴的に「死」を迎え、新たな生命を得て「再生」するのです。「再生」に際しては、「生みの苦しみ」を伴うかもしれません。特に寒い冬など、冷たい水に触れるのは気合いも必要です。しかし、そのような象徴的な「死」を通じて、心の奥に潜む〈ありのままの自分〉を見つめることができたときには、み仏に対する懺悔と感謝の思いがわき起こり、生まれ変わったような新鮮な気持ちになれることでしょう。

行には、このような儀礼としての面もあり、同一の行為を定期的(周期的)に繰り返すことが必要になります。そのため、行は一定の決まりに則って行われ、自分勝手にただやればよいというものではありません。お瀧をいただく際には、頭や胸に直接いただかないようにするなど、注意事項をよく守り、心を引き締めて、み仏に身をまかせきる気持ちで実践させていただきましょう。

『こすもす』391号(平成25年7月5日発行)「神仏の輝き」より


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