平成27年・バックナンバー

平成27年4月
宗教学から見た中山身語正宗[2]


1.聖と俗 @聖なる時間 学びの森

聖なる時間を繰り返すことで清浄無垢な心を取り戻す
本宗では、「立教の原点に返ろう」という表現がよく使われます。また、宗祖上人のご生誕やご示寂、立教の日など、特定の時間を基準とした法要が営まれています。今回は、このことを考える上でヒントになる宗教学的な定義について見ていきたいと思います。
聖なる存在が私たちの世界にどのように現れるか(宗教現象学)を研究したルーマニア出身の宗教学者ミルチア・エリアーデは、「宗教とは、いずれの文化にももれなく観察される永遠回帰の神話≠ノ象徴されるような、人類の完全な原初の世界に立ち戻ろうとする欲求の表現である」と定義しています。

ここでまず、「聖と俗」について考えてみましょう。「ハレとケ」という言い方もされますが、ここでは祭りや儀礼などの特別な時を「聖(ハレ)」、それ以外の普段の日常的な時を「俗(ケ)」とします。宗教的な祭りは、完全な原初の世界、聖なる出来事(神話)を再現します。祭りに参加することで、私たちは日常的時間から脱し、神話的時間へと帰入するのです。俗なる時間は均質で、一定の速さで過ぎ去っていきます。一方、聖なる時間は「永遠の現在」であり、何度でも繰り返されます。「永遠回帰」というのは、いつまでも何度でも、この聖なる時に立ち返ることができるという意味を表しています。

大正元年の2月18日、み仏は宗祖上人の枕元に出現され、「この度、根本大悲の親は頼む一念身語正とひらくぞ。日本の国のすみずみから、世界の国のはしばしに至る迄、ひらいて助けてゆくぞ」という〈おじひ〉を授けられます。本宗では、この日を記念し、毎年2月18日に柴燈大護摩を焚き、立教の原点に思いを馳せます。この日には永遠回帰の神話≠ェ再現され、私たちは立教の日の「聖なる時間」に参入できるのです。
さらにエリアーデは「宗教的人間は、周期的に聖なる時に浸りたいという欲求を持つ」と言います。み仏に近づきたいと思う私たちは、み仏の教えを繰り返し学び、行ずることによって聖なる時間を反復しているともいえるのです。

日々の勤行を勤めさせていただく時、お行に入らせていただく時、私たちは聖なる時間に参入しているのです。そのように、聖なる時間に参入できる機会が多くなるにつれて、私たちが生まれながらに本来もっている清浄無垢なる心が取り戻されていきます。
また「原初の世界」とは、単に歴史的な事象を指すのではなく、自らの根源、本来の自分自身と考えてみることはできないでしょうか。そうすると「本来の自分自身に立ち返る、一回だけではなく、何度でもそれを繰り返していく、それが宗教だ」とエリアーデの定義から読み取ることもできるのではないでしょうか。 次回は引き続き、聖なる空間、聖なる場所について考えてみたいと思います。

『こすもす』388号(平成25年4月5日発行)「神仏の輝き」より


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