平成27年・バックナンバー

平成27年2月
中山身語正宗を語る[3]


〈おじひ〉の親たるみ仏が〈おじひ〉を授けて下さる時、それを正しく受け止めることができた「わたし」は、必ず〈おじひ〉のままに実践、実行し、生きねばなりません。その生き方は、常に〈おじひ〉を通して授けて下さる「み仏のこころ」を正しく体解、体得しようとする生き方となります。 学びの森

「仏のこころ」を体解体得できた時、み仏からこころを授かる
中山身語正宗の「信心(宗教的実践)」は、授かった〈おじひ〉のままに実践、実行することから始まります。その時の実践、実行には、何の理屈も解釈もいりません。ただただ〈おじひ〉のままに実践、実行する「素直さ」が必要なだけです。この時の「素直さ」を本宗では、
「赤子になって三歳児(みつご)になって、伊達や飾りをすてて」
と表現してきました。

しかし、ここで改めて注意しておかねばならないことがあったのではないか。こんなことに気づかせていただきました。それは、〈おじひ〉を授かるという体験は、授かる「わたし」独(ひと)りの体験であった、ということです。わたしの「目」には、確かにそう見えています。わたしの口を通して、確かにその「語(ことば)」は語られています。わたしの胸には確かにそのように「思わせて」いただいています。しかし、それを他人にどのように伝えるべきかは、大事な考え所ではないでしょうか。
わたしが授かった〈おじひ〉を他人にどのように伝えるべきか。これを本宗では
「説き開く(説き開き)」
といっています。そして、この説き開きは、「わたしのこころ(ものの見方、考え方)」を通して行われるものなのです。

では、わたしは普段からどのような「こころ(ものの見方、考え方)」を持っていたのでしょうか。
仏教では、そのわたしの「こころ」を磨くために、仏の教えを正しく学ぶ訓練を怠(おこた)ってはならないと考えてきました。そして、仏の教えが記録されている仏典(経典)を読み、学ぼうとしてきたのです。そして、その仏典を正しく読むための指南書として高僧たちが心血を注いで読み解き方を綴(つづ)ってきた「論書」を学んできたのです。こうして身につけることのできた「仏のこころ(ものの見方、考え方)」を自分自身の「こころ」としようとしてきたのです。

こうした努力が基となって、わたしが授けていただいた〈おじひ〉を説き開き、その説き開きに基づいて〈おじひ〉のままに実践、実行しようとしてきたのです。すると、その結果、わたしたちは、それまで自分の頭を通して理解していただけの「仏のこころ」を自分の胸の中に、腹の底に「ストン」と落し込むことができ、本当にそれを「わたしの普段のこころ」として体解(たいげ)、体得することができるようになるのです。
このように「仏のこころ」を体解体得できた時の「わたしのこころ」は、授けていただく〈おじひ〉を仏のこころに沿って受け止められる「こころ」になりきれているため、
「み仏からこころを授かる」
ことができるのです。

み仏から授けていただく「こころ」がしっかりと理解できた時のわたしは、授かった〈おじひ〉をもう決して表面的にしか受け止められないわたしではなくなっています。〈おじひ〉の語(ことば)をより深く、み仏のこころに適(かな)ったものとして受け止め、素直に実践、実行しているわたしになれているのです。
ですから、〈おじひ〉のままに実践、実行するには、この「仏のこころ」を正しく学び、身につけようとする努力がなくてはなりません。
あるいは、わたしの中に、徹底した「み仏への信」を持つことが必要となります。

「こすもす」399号(平成26年3月5日発行)より


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