平成27年・バックナンバー

平成27年1月
中山身語正宗を語る[2]


宗祖上人が生涯にわたって体験されてきた「〈おじひ〉の体験」。そこで語られる〈おじひ〉とは、一体何なのか。それを本宗では、どのように理解し、語り継いできたのか。そこにあった確信とは、一体何だったのか。そんな本宗の〈おじひ〉について語られてきたことを振り返ってみましょう。 学びの森

中山身語正宗で語られる〈おじひ〉とは
中山身語正宗で語られる〈おじひ〉とは、〈おじひ〉の親たるみ仏が、このわたしたち人間一人ひとりに授けて下さる「語(ことば)」だと確信されています。
み仏がわたしたちに直々授けて下さる「語(ことば)」には、二つの意味があると考えることができます。一つは、仏教の開祖たる釈尊が「さとり」を開くことによって語られた「ことば」です。その「ことば」は、仏弟子によって記憶され、伝承され、仏典に記録されてきました。もう一つは、わたしたちが「宗教体験」として直々み仏から授かる「ことば」です。本宗では、この第二番目の「ことば」を〈おじひ〉の体験を通して授かった「語(ことば)(すなわち如来の語(ことば)としての〈おじひ〉)」と理解してきました。

そして、身語正第二世覚照猊下はご生前、この「〈おじひ〉という如来の語(ことば)」は「正しい宗教体験を通して得られる多くの宗教の中で体験されてきたことば」そのものであるとして、これを「広義(こうぎ)の身語正(広い意味での神仏より直々人間に授けられたことば)」と名づけられました。そして、本宗において、〈おじひ〉の親たるみ仏から直々わたしたち一人ひとりが授けていただく「如来の語(ことば)」を、「狭義(きょうぎ)の身語正(限定した本宗独自の〈おじひ〉の体験として授かる〈おじひ〉のこと)」と名づけられたのです。
実は、ここにある覚照猊下の思いは、宗祖覚恵上人に始まり、今日のわたしたち自身が「正(まさ)しく(嘘、偽りではなく本当に)」体験させていただく「〈おじひ〉の体験」は、本宗のみが体験できるのではなく、すべての宗教において素直に、謙虚に一途(いちず)に神仏へと向かえる者には、等しく授けられるものである、という本宗の「宗教体験」に基づく確信の下(もと)で語られた思いであったのです。

では、み仏が授けて下さる〈おじひ〉の語(ことば)は、具体的には、わたしたちにとって「どのような宗教体験として」受け止められるのでしょうか。
人間の行(おこな)い(行為)には、三つある、とするのが仏教の伝統的な考え方でした。すなわち「身業(しんごう)(身体的行為)」「口業(くごう)(言語的行為)」「意業(いごう)(こころの働きという行為)」がそれです。そして、密教と呼ばれる仏教の一派では、「仏にもまた三業(さんごう)がある。しかし、仏の三業は人間の三業よりもはるかに緻密(ちみつ)であるので、人間の三業と区別するため、これを三密と名づける」と説きます。
すなわち、宗教の中で神仏よりわたしたちが授かる「如来の語(ことば)(すなわち広い意味での神仏のことば)」とはこの「三密」のことだと密教的には理解できます。

中山身語正宗では、み仏の働きとしてわたしたちに授けられる「如来の語(ことば)」、すなわち〈おじひ〉は、わたしたちの三業を通して、例えば「眼力(がんりき)(身業の上に授かったもの)」「口中(こうちゅう)(口業の上に授かったもの)」「胸にいただく(意業の上に授かったもの)」として体験される、としています。
こうして授かる〈おじひ〉が、嘘、偽りではなく本当のものであるか否かは、それが必ず「現証(げんしょう)(現実的な証(あかし))」となって現われることによって確認される、と確信してきたのです。それが本宗で語られてきた〈おじひ〉の体験に他なりません。
宗祖上人ご自身のこうした「〈おじひ〉の体験」に基づいて明らかにされた信心こそ、本宗の信心なのです。

「こすもす」398号(平成26年2月5日発行)より


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