平成26年・バックナンバー

平成26年10月
中山身語正宗と仏教の常識[20]


仏教が日本に伝来したのは、西暦538年のこととされています。当時、日本の人々は、日本固有の「神々」と新しく異国から到来した「仏」たちとをどのように受け入れるべきかと、大いに頭を悩ましたようです。今回は、日本における神と仏との関係について考えていくことにいたします。 学びの森

日本における「神」と「仏」との関係について
日本という国は、アジア地域の最も東の端に位置しているため、東北アジアに位置する中国、朝鮮半島や東南アジアの国々を経由して、さまざまな文物を受け入れてきました。仏教もまさしくそうしたものの一つだったのです。
仏教が日本に伝来される以前、既に日本には「固有」の宗教がありました。それは今日「神道(しんとう)」と呼ばれています。そして、その神道とは、一体どういうものであったのかを伝えてくれる文献の一つが『古事記』なのです。

この『古事記』には、神々のことがまず最初に語られています。そして日本という島国は、神々によってつくられ、神々の子孫たちによって形成されたのだといいます。そんな国に仏教は伝えられたのです。そのため、最初この異国の神たる「仏」たちを崇めようという「崇仏派」と、崇めれば日本「固有」の神々の怒りをかうとする「廃仏派」の争いが激しかったようです。しかし、次第に崇仏派が力を持つようになっていったのです。
そんな新たな状勢の中で、越前(現在の福井県)の気比(けひ)神宮の神が藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の夢に現れ、「幸いに吾が為に寺を造り、吾が願を助け救え。吾れ宿業(すくごう)に因(よ)りて神たること固(もと)より久し。今仏道に帰依し、福業(ふくごう)を修行せんと欲するも、因縁を得ず。故に来りて之(これ)を告ぐ」といったので、武智麻呂が神宮寺を建立した(末木文美士『日本仏教史』306〜307頁)というエピソードが起こります。すなわち「神は迷える存在であり、仏の救済を必要とするという考え方」が生まれてきます。そして更には、「神は仏法を守護するという考え方」や「神はじつは仏が衆生救済のために姿を変えて現れたのだという考え方(これを本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といいます)」等が現われてきます。

このようにして日本においては、神と仏とが同居(並存)できる原理を明らかにしていったのです。その結果、江戸時代末期まで着実に日本人の「神仏」理解の基盤として神仏習合が定着していきました。
しかし、明治時代になって天皇を国家元首とする新しい日本国が生まれると「神仏分離令」が発せられ、民衆の間には「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏像等を廃棄し、釈迦〈仏教〉をすてよ)」という運動が起こります。しかし、それは、あまりにも度の過ぎた運動であったとの反省が興って、数年間で一応の鎮静をみたのです。
こうした一時的な混乱はあったものの、日本人にとって「神仏」同居は、極めて納得のいく理解の仕方であったため、今日においても全くその通りに受け止められている事実は周知の通りです。

こうした理解の基盤を持つ日本人にとって、キリスト教の神を抵抗なく受け入れていったのも十分納得のいく事実でした。しかし、その結果は、実は個々の特性を本来しっかりと持っていた宗教が、その特性を正しく理解されることなく、日本人の心の中に定着していった事実も忘れてはなりません。
現在「宗教間対話」というテーマが多くの宗教者の関心を集めています。しかし、それが具体的に「何を」「どのようにしていこうとするものなのか」、多くの日本人はまだ十分に理解できていないのではないか、という危惧を抱かせるのも、こうした基盤故かもしれません。

「こすもす」395号(平成25年11月5日発行)より


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