平成26年・バックナンバー

平成26年5月
中山身語正宗と仏教の常識[15]


今回は、「法宝」についてお話します。「法」とは、仏教の開祖釈尊がさとられ、それによって「仏(ブッダ)」となられた「真理(ダルマ)」のことです。そして、釈尊が自らさとった「ダルマ」を正しくわたしたちのために説いて下さった「教え(教法)」のことでもあります。

学びの森

仏教における「法」とは、縁起の理法のことです
仏教における「法」とは何でしょうか。一般的には、

原始仏教では、人間がいかなる時、いかなる所においても、「遵守すべき永遠の理法」があると考え、それを「法」(サンスクリット語でダルマ、パーリ語でダンマ)と呼んだ(『バウッダ』32ページ、小学館ライブラリー)
原始仏教においては、「法」の権威が最高のものであり、「仏」の上に位していた。たとえば、「縁起の理法」について、決まり文句として次のようにいう。───
この縁起の理法は「永遠の真理」である。「如来が世に出ても、あるいはいまだ世に出なくても、この理は定まったものである」。如来は、ただこの理法を覚(さと)って「覚り(等正覚(とうしょうがく))」を実践し、衆生のために宣説(せんぜつ)し、開示しただけにすぎない、という(同書、34ページ)

と説明されます。すなわち仏教における「法」とは、人間にとって、いつ、いかなる時でも「遵守すべき永遠の理法」であり、これをさとった人が「仏」となるのであるから、「法」は「仏」を産み出す〈母〉のようなものである。このような「法」を仏(覚(さと)った人)は、まだ覚らぬ人々に正しく開示し、説こうとされるだけである、と。

そして、このように説明される仏教における「法」とは、「縁起」している事実そのものであり、縁起の原理(理法)そのものでもある、とされます。
「縁起」している事実とは、わたしたちが住むこの世界そのもののことです。ですから、「この世界のすべては縁起して現われてきたものである」ともいわれるのです。
そして、「法」を覚って「仏」となられたお方は、こうも説かれます。
「宇宙の始まりから終りまでの間全く変化することなく在り続けるものは、たったの一つもない。すべてのものは時々刻々に変化するものであるため、縁起して現われ出ている「今」「ここに」「このようにして在る」すべてのものは、必ず変化していくものである」と。

このように「法」を正しく覚るものは、縁起してきたすべてのものが必ず「変化し続けるもの」であると確信せねばならない、といわれます。
以上のような考え方は、仏教的なものの見方、考え方の核心に置かれるものであって、仏教以外の宗教との違いを明確にするための、最も大切なポイントともなっています。
すべてものは「変化する」。ですから「変化して欲しくない」と願う気持がわたしたちの内側に生まれてきた時は、そうした思いを「執着(とらわれの心)」と呼んで、そうしたこころを捨てなさい、ともいわれるのです。
一般的に、このとらわれの心を煩悩といいます。その煩悩があるために、わたしたちは悩み、苦しみ、迷ってしまうのです。ですから、その煩悩を正しく捨て去るためには、そうしたとらわれを捨てることになる正しい仏教的ものの見方、考え方である「法」を覚ることが大事になってくるのです。
では、こうした「覚り」は、一体どのようにしたら実現できるのでしょうか。それを正しく教えて下さるお方こそ「仏」と呼ばれるお方であり、その教えに従って修行する人々が「僧(修行者)」だったのです。

「こすもす」389号(平成25年5月5日発行)より


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