平成26年・バックナンバー

平成26年2月
中山身語正宗と仏教の常識[12]


「三学」の3つ目に置かれる「慧学(えがく)」とは、仏教の開祖釈尊がさとりを通して確信された「仏教的な正しいものの見方考え方」を学ぶことです。さとりを開かれたお方は、等しくこうしたものの見方、考え方を共有されるといわれます。それが一体何なのか。少しさぐってみることにいたします。

学びの森

「慧学」とは、理屈として正しく理解したみ仏の智慧に他ならない
み仏のみ仏たる由縁は、仏教的な正しいものの見方、考え方としての「智慧」が具(そな)わっているということである、とされます。そして、その智慧を通して見られるものの見方、考え方を「縁起」説と称しています。
「縁起とは、一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(いん)(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生ずるという考え方を表す。」(岩波『仏教辞典』77頁)
と説明されます。

すなわち、この世の中にあって生滅変化を繰り返す一切の物事は、因と縁と呼ばれる二つの原因によって生じた「果(結果)」である。そして、このようにして生じてきた「果」は、ただちに次のものを生じる「因」となって、新しい「縁」と結びついて新たな「果」を生みだす。こうしたつながりが一瞬たりとも滞(とどこお)ることなく続いている姿こそ、わたしたちの住む世界の姿なのだ、といいます。
そこで仏教者は、このようにすべてのものが生滅変化する根底に流れる法則、原理を「縁起の理法」と呼んできました。そして、この法則・原理に則(のっと)って現われ出た「今」という現実世界を「縁起した世界」と呼んできたのです。

ですから仏教では、この生滅変化の全てを司(つかさど)る唯一絶対なる存在としての「創造神」は立てません。また縁起を無視する「偶然論」や「宿命論」なども説きません。まして何の原因もなく無から湧き出るような「無因論」などは絶対に説かないのです。
すべての物事は、因・縁・果とつながって起こってくるものです。ですから、もしもその理法を正しく見究めることができたら、その人には、「今」「ここに」「このようにしてある」全ての物事の一部始終が手にとるように分かるはずです。しかし、悲しいことに人間にはその全てを見通す能力などあろうはずはない、と断言します。
縁起の理法を理屈として理解できても、そして縁起して現われている「今」「ここに」「このようにしてある」世界の全てを瞬時に見ることができたとしても、それがどのような因・縁・果を経て起こってきたか、そしてこれから先、どのような因・縁・果を得て「どのようになっていくのか」という、その全てを見通せる力など、人間にはないのだ、といいます。

もし、そんな能力をお持ちのお方があるとしたら、それはただ一人、本当に正しくさとりを開かれたみ仏のみである、といいます。そのため、わたしたちはみ仏のことを「見貫き、見通されるお方」とお呼びさせていただくのです。
ですから、わたしたち人間が「学ぶべきもの」として考えている「慧学」とは、理屈として正しく理解したみ仏の智慧に他なりません。それは、み仏の智慧そのものではなく、み仏の智慧によって見られた智慧なのです。
このように、仏教においては、み仏の智慧を通して明らかにされた仏教的ものの見方、考え方を正しく学ぼうとしているのです。
中山身語正宗の信心においては、この智慧をみ仏の授けて下さる〈おじひ〉を正しく実践・実行して生きることで、み仏からこころを授かり、授かったみ仏のこころに叶った生き方ができるようになると確信してきたのです。

「こすもす」386号(平成25年2月5日)より


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