平成25年・バックナンバー

平成25年11月
中山身語正宗と仏教の常識[9]


今回は、十善戒の中の「意業(いごう)(意(こころ)の働き)」である「不慳貪(ふけんどん)戒(貪(むさぼ)らない)」「不瞋恚(ふしんに)戒(怒らない)」「不邪見(ふじゃけん)戒(誤った考え方をしない)」の3つについてお話します。  この中で最も重要なものは、不邪見戒です。その訳は、仏教が「仏教的に正しいものの見方」を最も重視するからです。

学びの森

仏教で説く「智慧」とは、「縁起」というものの見方、考え方
インドで仏教を再発見し、インドにおける「新仏教徒(ネオブッディスト)」の祖となったB・R・アンベードカルは、その著『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)の中で、次のようにいっています。「ブッダの教えで最初の際立った特色は、あらゆるものの中心に“心”をおいたことである」と。
ここにいわれる“心”とは、仏教的なものの見方、考え方のことである、といい換えることができるでしょう。すなわちアンベードカルは、仏教においては、いかなるものの見方、考え方を基にして、あらゆる行いを行うかを最も重視するということです。

十善戒の中では、それを「貪らない心」「怒らない心」「誤った見方、考え方をしない心」だと列挙するのです。
「貪り」は、自己中心的な貪欲から起こります。「怒り」は、自己中心的な価値観に重点を置きすぎたときに起こります。そして、「誤ったものの見方、考え方」は、仏教的には、仏教的な正しいものの見方、考え方である「智慧」のないところに生まれるのです。
仏教が全ての仏教者に目指して欲しいと願っている人間像とは、心に真の安らぎを持って、公平で、慈愛に満ちた行動がとれて、決して自己中心的ではない人間です。

ですから身語正第二世覚照猊下は「たらいの中の水」を例に挙げて、それを自分の方に取り込むのではなく、相手の方に振り向けた時、本当に自分も手に入れることができると説かれ、貪欲を戒(いまし)められたのです。
また、仏典にはみ仏のおことばとして、「怒りは怒りによっておさまらない。怒りなくしてこそ、本当におさまる」と説いて瞋恚(しんに)(怒り)を戒められています。
そして、とどのつまり、人間にとって最も正しい生き方は、仏教的に正しいものの見方、考え方を生み出す、本当の智慧を身につけよ、と説かれるのです。

では、仏教のいう「智慧」とは何でしょうか。それが仏教独特のものの見方、考え方である「縁起」というものの見方、考え方です。そしてそれを、しっかりと、本当に身につけることだったのです。  仏教に説く「縁起」というものの見方、考え方が正しく身についた人の目には、この世にある全ての物事が一つとして道理に叶わず起こってきたりするものはない、と確信されます。ですから「なる」から「なる」「できる」から「できる」のであって、道理にはずれた「本来なるはずがなかった」のに「なった」ということは、一つとしてあった試しはないと卓見します。

ところがわたしたちは、信仰を通して「なるはずがない」ものが「なった」と体験的に思わずにはおれない体験をすることが時々あります。
こうした不思議は、み仏によって「実は人間のお前には、なるべくしてなったその道理が、全く見えておらず、理解できていないから、そういうしかないだけであって、この仏の眼には、全てが見抜き、見通しに見えているぞ」と説いて開いていただくのです。
すなわち、人の目には、全てが見えてはいない、ということをしっかり理解できていれば、わたしには不思議としか思えないことも、み仏が教えて下さる本宗の〈おじひ〉の真意が正しく納得できるはずです。

「こすもす」383号(平成24年11月5日発行)より


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