平成25年・バックナンバー

平成25年7月
中山身語正宗と仏教の常識[5]


すべての人が「さとりを開いた人」である「仏」になる可能性を持っている、と確信してきた仏教は、人間の中にあるその可能性を仏性として明示してきました。中山身語正宗の信心の「実践者(すなわち身語正行者)」が、改めて仏性開顕のためになすべき「三学」について学んでおきましょう。

学びの森

「仏性開顕」のためにも正しく実修せねばならない「三学」
前回、「仏性(ぶっしょう)」ということばに触れましたので、今回はもう少し詳しくお話することにいたします。
「仏性」という仏教の用語は、わたしたち一人ひとりの人間の中にある、わたしたち自身が仏(覚者(かくしゃ)、すなわちさとりを開いた人)となれる可能性のことをいいます。
仏教という信心(宗教的実践)を通して到り着こうとしている目標はわたしたち自身が「さとりを開いた人」である「仏」に成ろうとするところにあります。では、わたしたち自身が成り得る「仏」とは、一体どのような人のことをいうのでしょうか。その「仏」とは、仏像として描かれたり彫られたりしたお姿とそっくり同じ姿になる、ということではありません。仏教的に正しい「ものの見方、考え方」ができる人間となることです。

仏教では、「ものの見方、考え方」としての「心」をあらゆるものの中心に置きます。そして、その心に従って人は「行為する」と考えています。そして、その心が仏教的に正しいものである時、その人は「仏のように行為する」ため、仏に近づいた人であると了解されることになります。こうした、人間が本来もっている心(ものの見方、考え方)を仏教的に正しいものにしていくことが「仏性を開顕(かいけん)する」すなわち、わたしたちを「仏」に近づけていくことになるのです。  では、仏教的に正しいものの見方考え方をするということはどういうことでしょうか。
仏教では、仏教の信仰をし、正しく仏道を歩き、仏になろうとする場合、必ず学び修めていかねばならない3つのものがあるとされています。それは、今回のシリーズの第1回目でご紹介した「三学」です。

「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」の三学は、既に「さとりを開かれた」仏によって明らかにされ、仏教の教学史の中で更に詳細に説明されてきました。
例えば「十善戒」は、大乗仏教において広く承認された仏教の信仰者の守るべきルール、すなわち「戒学」の一つです。
ですから、仏教の信仰をし、一人の修行者として仏教本来の目的に向かって進んでいこうとするなら、わたしたちの学ぶべき3つのものについて、一応の理解を持ち、承知しておかねばなりません。その上で、それを自分のこととして身につける努力(精進)をさせていただけるようになった時、わたしたち自身が自らの内にある「仏性を開顕しよう」とする真の菩薩への道を歩き始めた、ということになります。

実は、中山身語正宗の信心をするわたしたちは、本宗の入信儀礼とされる「ご成就」を授かることによって、本宗の教主(ご本尊)から「現当二世のご縁結」をしていただけます。そして、このご縁結びがあるからこそ、み仏はわたしたち一人ひとりに対して「仏性の開顕」を目指す修行者(身語正行者)となれ、といわれます。わたしたちが「身語正行者」として、み仏のお導き下さるみこころのままに至心(ししん)に行じていくならば、「お前たちこそ真の菩薩なり」と示して下さるのです。だからこそ、中山身語正宗の信心を正しく実践していこうとする者は、必ず仏教に説かれる修行者のための「三学」を正しく実修していかねばならないのです。今回は、この点を深くご理解いただきたいと思います。

「こすもす」377号(平成24年5月5日発行)より


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