平成25年・バックナンバー

平成25年6月
中山身語正宗と仏教の常識[4]


「身語正」という仏教の信心(法門)を宗祖覚恵上人に託してこの世に持ち出された身語正教主「根本大悲の親」というみ仏は、仏教の中で語られる「仏身論」では、「法身仏」に当ると考えています。では、本宗の教主は、どのような特徴をもった「法身仏」だと考えられているのでしょうか。

学びの森

身語正教主・根本大悲の親は「〈おじひ〉の親」
本宗の教主(教え主)たるみ仏は「〈おじひ〉の親」とも呼ばれるように、わたしたちに〈おじひ〉を授けて下さるという明らかな特徴をもっておられます。
〈おじひ〉とは、わたしたちがこの身心をもって体験させていただく「宗教体験」を通して受け止めさせていただくものです。そして、その授かり方によって、「口中(こうちゅう)(自分の口から思いもかけぬことばとしていただかせていただくもの)」「眼力(がんりき)(自分の眼にありありと見せていただくもの)」、あるいは胸にいただくものなど、様々です。 こうした宗教体験は、決して本宗独自の信心(宗教的実践)があってこそ起こるものではありません。実は多くの宗教において、古来から等しく体験されてきたものなのです。だからこそ本宗では、「すべての宗教は、本来すべて身語正であった」と確信してきました。

ここでいう「身語正」とは、「身に正(まさ)しく如来の語(ことば)を授かる」という意味です。すなわち、わたしたちが神・仏の授けて下さる〈おじひ〉(如来の語)を間違いなく受け止めさせていただく体験ができる、ということです。そのため、本宗では、こうした広い意味での、すべての宗教の中に見られるこうした「宗教体験」を指して、「広義の身語正」と呼んできました。
これに対し、本宗の中で体験される〈おじひ〉の体験を「狭義の身語正(すなわち、限定して身語正ということばを使う時の身語正)」として区別してきました。そして、この「狭義の身語正」にこそ、本宗の信心の「生命(いのち)」を確信してきたのです。

本宗の中にある「身語正」は、宗祖上人が物心つく頃から授かってこられたものであり、宗祖上人によってわたしたち一人ひとりにも「授かっていた」ことを確信させていただけたものだったのです。そして、この身語正(如来の語)は、本宗の信心を正しく実践する者には、時間と空間を超えて、等しく常に授けられ、受け止められるものとして確信されてきたのです。
そのため、中山身語正宗という信仰においては、〈おじひ〉は嘘でも偽りでもなく、本当に生き生きとして、み仏から授け続けられ、わたしたちによって受け止め続けられるものと確信されているのです。
こうした確信があるため、本宗では、「〈おじひ〉の親」たるこのみ仏の実在をも確信することになり、このみ仏をあたかも「わたしの前にありありと実在」する存在として受け止めてきたのです。

本宗の仏身観の特徴として、この実在観は大変強い印象を残すものとなっています。そのため、宗人の多くが「み仏に○○していただいた」と感じていることも見逃すことのできない特徴になっています。
このように、身語正教主は、わたしたち一人ひとりに「語りかけて下さるみ仏」としての法身仏と確信されてきました。これは、真言密教において語られる「自受法楽(じじゅほうらく)(法身仏たる大日如来が自らの楽しみを享受するために自らが語られるという法身説法)」とは、そのニュアンスが随分異なっています。
そこで中山身語正宗では、この〈おじひ〉は、別な見方でいうと「自身との対話(仏性の顕現)」として語ることもできるのではないのか、とも考えています。

「こすもす」376号(平成24年4月5日発行)より


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