平成24年・バックナンバー

平成24年12月
初めての方のための「身語正」入門[22]


〈おじひ〉は、本宗の信心にとって「いのち」のようなものであるといわれます。そして〈おじひ〉の体験を世代から世代へと継承していくことは、すべての生物が「いのち」を継承し、その存続を確かなものにしていくのとそっくりです。そんな〈おじひ〉の継承について考えてみました。

学びの森

「〈おじひ〉の体験」を伝承していくための基本となるものとは
身語正第二世覚照猊下は、
「見るもの聞くもの、すべて〈おじひ〉でないものは無い」
と、しばしばお話されていました。
 「〈おじひ〉の親」たるみ仏のみこころが伝えられる〈おじひ〉は、実はわたしたち人間の周りには、満ち溢れる程に既に授けられている。覚照猊下の確信には、このような信念がおありになったということではなかったでしょうか。もしも、こうした理解の仕方が覚照猊下の真意に叶ったものだとしたら、「〈おじひ〉をいかに授かるべきか」と問うのではなく、「既に授かっているはずの〈おじひ〉を、いかに正しく受け止めるべきか」と問われねばならないことになるに違いありません。

〈おじひ〉の伝承は、中山身語正宗の信心(宗教的実践)において、常に最も肝要なものであることは、本宗人ならば、どなたも異論をはさまれることはないだろうと思います。
〈おじひ〉の伝承とは、「〈おじひ〉をいかに受け止めるべきか」ということの伝承であったとしたら、例題としてはあまりにも不遜(ふそん)かもしれませんが「職人たちの世界における技術の伝承に似たところがあるのではないか」という気がいたします。
職人たちの世界では、技術の伝承は、よく見て盗めといわれています。
三代にわたって人間国宝に認定されたある職人の三代目は、次のように語っています。「技術の伝承は、手取り足取りしたところで、その真髄(しんずい)の全てを伝えることはできない。しかし、例えばその技術を修得するための基本となることは、間違いなく教えられるし、伝承していくこともできる」と。

では、本宗における〈おじひ〉の伝承において、その基本となるものがあるとしたら、それは一体何なのでしょうか。多分それが「おすがり」だったのではないかと確信します。三歳児(みつご)になって赤子(あかご)になって「み仏」にすがりつく。これは、ほとんどすべての人間が無事成長できた時には、必ず幼い日々に実際に行(おこな)ってきたことであり、だからこそ「いつでも、どこででも」思い出し、再現することが可能だと確信されているものではなかったでしょうか。

しかし現実には、自分がしてきたはずなのに、今では「ほとんど再現できなくなっている」のが事実のようです。わたしたちの大半の者は、おとなになった今、ほとんど三歳児赤子の時のように泣くこともすがりつくこともできなくなっています。しかし、時折「三歳児のように、赤子のように」泣いてしまったという体験をされる方は、決して珍しい訳ではありません。だとすると、わたしたちが「三歳児のように赤子のように」母(信仰する者にとってはみ仏といってもいいかもしれません)にすがりつくことは、決して出来ないことではないことは、十分に納得がいきます。

中山身語正宗の信心における「おすがり」は、こうした「三歳児のように赤子のように」すがるすがたを改めて自分のこととして取り戻すためのものだった、ということではなかったでしょうか。その時、わたしたちは、わたしの周りに既に満ち溢れていて、正しく受け止めてほしいとみ仏から願われている〈おじひ〉を正しく受け止められるのです。

「こすもす」359号(平成22年11月5日発行)より


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