平成24年・バックナンバー

平成24年9月
初めての方のための「身語正」入門[19]


中山身語正宗における「心の行」という実践は、実は仏教の開祖釈尊の最期のみ教えにいい遺(のこ)されていたみこころと軌を一(いつ)にするものであった。この不思議な一致を学び直し、「心の行」の実践を通して、わたしたちのあるべき信仰生活とはどんなものかを学び直してみることにしましょう。

学びの森

「心の行」の実践を通して、宗人としてあるべき信仰生活とは
中山身語正宗の信心の具体的な実践行として行われる「心の行」は、「一事一物に対しても報恩感謝の念をもって精進努力する」生き方をわがものにするためのものだ、と前回お話させていただきました。
仏教の開祖釈尊の最期のおことばは「もろもろの現象は移りゆく。怠(おこた)らず努力するがよい」であった、と経典は記録しているといいます(渡辺照宏著『新釈尊伝』、ちくま学芸文庫)。ここにいわれる「もろもろの現象は移りゆく」とは、三法印の中に説かれる「諸行無常」と同じことです。すなわち、釈尊がいい遺(のこ)されたみ教えとは、仏教の最も基本的な「ものの見方、考え方」である、この世のすべての物事は無常(永遠に変化することなく在り続けることのできるものなど一つとしてない)である。だからこそ、生命(いのち)あるものは、決して怠ることなく努力して生き続けなくてはならない、ということだったのです。そして、中山身語正宗の信心においては、その生き方は、「一事一物に対しても報恩感謝の念をもって精進努力する」生き方でなくてはならない、といわれているのです。
「怠らず努力せよ」という釈尊のみ教えは、宗祖覚恵上人によって「一事一物に対しても報恩感謝の念をもって精進努力する」といい換えられ、その内容がより具体的に示されていることが改めて判(わか)ります。

では、「一事一物に対しても報恩感謝の念をもつ」とは、一体どういうことでしょうか。
すべての生命(いのち)あるものは、自分が希(のぞ)む環境のもとに生まれ出た訳ではありません。仏教的な表現でいうと「与えられた因縁によって」授けられた環境のもとに、ただ生命を生まれ出されただけです。ですから、その環境が、自分の希(ねが)ったものとはいえなくとも、それを素直に受け止めていく外にはありません。「一事一物に対しても報恩感謝の念をもつ」とは、その素直な受け止め方が、報恩感謝の念を伴(ともな)ったものである、ことをいいます。そして、こうして授けられた「環境」としての一事一物は、わたしにとってすべて「よかった」といい得るものではないはずです。それでも「まずは素直に、そのすべてを受け入れなさい」。受け入れることができて、そこに「ありがたい」という思いをもてることで、次には「でも、このままでいい訳ではないから、自分の願うこの様な状況に変えていきたい」と願って、怠ることなく精進努力することが尊いことなのだ、と示していただくのです。

仏教という信心では、「願う(これを誓願(せいがん)といいます)」ということが大切だ、といいます。そして、その時の「願い」は、大きなものでなくてはならない。利己的で自分勝手な、自分のためだけの願いであってはならない、とされます。大きな、大きな願いをもって生き続けよ。そのようにいわれるのです。すなわち「怠らず努力する」ためには、こうした大きな願いがわたしの中にしっかりと持たれていなくてはなりません。そして、その「願い」を決して捨てることなく「願い」続けることが大事なのです。この大きな願いを願い続けることを、本宗の信心では「宗祖のご本願」成就を願い続けて生きることだ、といっています。

「こすもす」356号(平成22年8月5日発行)より


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