平成24年・バックナンバー

平成24年5月
初めての方のための「身語正」入門[15]


人間は考える動物だ、といわれます。では、この考えるということは、一体どういうことなのでしょうか。多分に、考えるということは、「理屈をこねる」こととたいして変わらないものではないのか、と思われているように思います。そこに、何の意味もないものなのでしょうか。

学びの森

仏教が確信してきた真の安らぎ安心(あんじん)とは
人間、いや全ての生きものにとって、「生きている」ことは、現実です。ですから、「なぜ生きるのか」「どうして生きていなくてはならないのか」などという問いかけは、人間にとっては「後知恵(あとぢえ)」なのかもしれません。
でも実は、人間にとってこの「後知恵」は、実に大切なものでもあります。人間以外の生きものは、この「後知恵」を持っていないがため、「ただ食べて、寝て、泣いて笑うて死んでいくだけ」の生きものになっているのだ、ともいえるのです。

人間にとって「考える」ということは、この「後知恵」をもって考えるということでした。それは、ことばを換えていうと「意味づける」ということでもあります。そして、この意味づけがしっかり出来た時、わたしたちは、あらゆることを納得することが出来ます。
仏教の開祖釈尊は、わたしたちのなすべき「意味づけ」の原理を「縁起の道理」におけと教えて下さっています。なぜなら、縁起の道理はわたしたちの生きている現実を「あるがまま」に見ようとした時、そこに永遠の真理として実感されるものだったからです。
人間は、「生まれてきて」、今、ここに、このようにして「生きていて」、その内必ず死ぬものです。そして、生まれてきたことも、生きていることも、死んでいくことも、全て「さまざまなものとの相互依存の関係(これが縁起の一瞬間の相(すがた)そのもの)」から生まれています。そして、その相互関係を意味づける後知恵としての「ものの見方、考え方」を、仏教では大切にしようとします。

先日チリで巨大地震がありました。インフラ(水道、電気、ガスといった生活を支える基盤になる施設やシステム)がほとんど復旧していないため、人々が汚い水を汲み上げて生活用水にしている現実がテレビのニュースで流れていました。インフラの整った平穏(へいおん)な社会だったら、決してそんなことを考えもしないだろうことを、いまチリの一部の人々は「仕方がない」という考え方をすることで、そんな汚い水に頼って生きています。
「ものの見方、考え方」は、常に変動する可能性を秘めており、そのものの見方、考え方が切り変えられてしまうと、想像を絶する行動でも平然ととれてしまうのが人間の本当の姿でもあります。だからこそ、どんな状況にあっても確かな「ものの見方、考え方」を見失わずにいれるということは、実に大切なことなのかもしれません。

戦争は、人を変えるといいます。でも仏教的にいうと、戦争に代表される異常な状況は、平凡な人間のものの見方、考え方に多大な影響を及ぼしやすいことが、よく知られている。だからこそ、そういうものに簡単に影響されてしまうような「ものの見方、考え方」に基づいた生き方をするのではなく、確たる信念をつくり上げる「ものの見方、考え方」から生まれる生き方を身につける。 ここに、真の安らぎ安心(あんじん)が生まれてくると仏教は確信してきたのです。そして、それを自分のこととするために「修行」をしてきたのである、といわれるのです。そんな生き方を本当に見つけたいと思います。

「こすもす」352号(平成22年4月5日発行)より


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