平成24年・バックナンバー

平成24年2月
初めての方のための「身語正」入門[12]


中山身語正宗の信心は、「お行の宗教」ともいわれます。そして、本宗では、全ての宗人が一人の例外もなく、日々「行ずる」行者であれと求められています。そして、み仏に向かって日々「行ずる」わたしたちは、「三歳児・赤子のようで」あれともいわれます。その意味とは、何でしょうか。

学びの森

「三歳児・赤子のように」ということばに託された思い、考え方とは
中山身語正宗の信心では、〈おじひ〉を授かるため、あるいは、〈おじひ〉のままに生きんがために「お行」をします。
宗祖上人は、「お行とは、行くこと。仏に向かって行くことだ」と教えて下さっています。そのため、お行は、ただただ苦行(くぎょう)といわれるような激しい行に徹せよとはいわれません。むしろみ仏に「素直に」向かっていくことが大切だといわれます。こうしたお行の姿は、本宗においては、「三歳児になって、赤子になって」といい慣(なら)わされています。

人間でも、三歳児・赤子といわれる年齢の幼児(おさなご)の行動をよくよく観察してみると、多分多くの読者は、次のような姿を確認されるはずです。
赤子と三歳児とでは、自ずと大きな差があるのは事実です。一般にわたしたちは、赤子はまだ十分に立って歩けず、自分自身のことを一人で行えない。また「ことば」も周りの人々と意志疎通ができないと考えています。それに対して三歳児の場合は、一人前に立って歩け、最低限のことなら自分のことは一応自分でできる。そして「ことば」も、不十分であるとしても一応周りの人々と意志疎通ができる程度に話せると了解しています。
 これ程「差」があるはずの赤子と三歳児を、まるで同じもののように表現している「三歳児・赤子のように」ということばには、どのような思い考え方が託されているというべきでしょうか。

わたしには、このおことばを宗祖上人に授けられたみ仏のみこころの中には、次のような思いがあったのではなかったのか、と思わずにはおれません。赤子と三歳児の行動面の差は前に述べた通り、歴然としています。それどころか、三歳児の行動には、大人の行動の基本に通じるものが、しっかりと確認されます。
では、三歳児と大人の大きな違いはどこにあると考えるべきでしょうか。そこにあるのが「おれが、われが」という計らいの強さと、その中味の違いに見い出されるのではないでしょうか。

大人になるということは、自分の計らいをしっかり持つということでした。これを「分別がある」とわたしたちはいってきたのです。そしてその分別が「正しい」と思える限り大人はその分別に固執(こしゅう)するようになってきたのです。しかし、三歳児の行動を見ていますと、大人のように自分の分別に強く固執する面が無いわけではありませんが、自分が窮地(きゅうち)に居ることが理解できたら、実に素直に助けを求める面があることを見逃すことはできません。それは、赤子の場合は、もっと「分別」することが無い分だけ、大人のような固執は、ほとんど見られません。

宗祖上人のいわれる「三歳児・赤子になって」というみ教えの中にあったものは、実は、大人がなかなか自分の「分別」から離れられず、ついつい自分の分別に固執してしまい勝ちな心の面、行動の面に対して、赤子や三歳児が素直にそうしたものから離れている、そうした面を学び直せ。そこにみ仏がわたしたちに求められる「仏に向かって行く」わたしたちの土台にあるべきものの大切さを気づかせようとして下さる思いがあるように確信させていただきます。

こすもす 347号より


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