平成24年・バックナンバー

平成24年1月
初めての方のための「身語正」入門[11]


「体験」ということばは、すべての宗教において「とても大切なことば」として使われてきました。体験をとても大切にする中山身語正宗の信心においてもその通りです。では、中山身語正宗の信心において大切にされてきた「体験」とは何であったのか。今回少し考えてみたいと思います。

学びの森

「〈おじひ〉の親」たるみ仏の実在を確信する「体験」こそ大事
「百聞は一見に如(し)かず」ということばがあります。幾度も聞くよりは一度実際に見る方がまさる、という意味です。中山身語正宗が「体験の宗教である」といわれる時、その体験は、前のことばにあった「一見」に当ると考えるのが普通です。

では、本当にその通りなのでしょうか。
普通「体験」ということばは、わたしたちが自分の五感(目で見、耳で聞き、舌で味わい、鼻で嗅(か)ぎ、皮膚で触れる)を通して直接得た経験のことをいいます。そして、この様にして得られた経験は、自分が直接体験したことであるため、そこには疑いの入る余地が全くないと確信されます。そのため、「体験ほど確かなものはない」といわれるのです。
しかし、現実には、その体験の中に錯覚(さっかく)があったり、「枯尾花(かれおばな)を幽霊と見る」思い込みがあったりします。こうした立場からは、「体験は必ずしも真実ではない」といわれたりもするのです。
こう考えてくると、わたしたちは自分の体験を「正しい」とか「正しくない」というべきではなく、正しく見ているか錯覚しているかは別にして、「そのように体験したことだけは、疑う余地がない」というべきであろうということが理解できます。

では、こうした「体験」の中で、絶対に「正しい体験」あるいは、自分のものの見方、考え方の「絶対的な立脚点」となるような体験というものが、本当にあり得るものなのでしょうか。実は、宗教における体験では、こうした体験が確かにあると信じられてきたように思います。そして、そうした体験を「いかに自分のこととして体験するか」が探し求められてきたと思います。

中山身語正宗において、こうした体験は、〈おじひ〉の体験を通して確信される「〈おじひ〉の親」としてのみ仏の実在を確信することであったとされてきました。すなわち、「〈おじひ〉の親」たるみ仏をしっかりといただきあげることのできる体験こそ、それだったのです。
「〈おじひ〉の親」たるみ仏の実在を体験を通して確信するということは、その体験をした人にとって揺らぐことのない生き方(これを安心(あんじん)を得た生き方ともいう)を自分のものとすることができます。そうした生き方をすることが出来るようになった人にとって、もう「エゴ(われが、おれがという自己中心的な生き方)」はありません。み仏一つを目当てにした生き方しか出てこないのです。

中山身語正宗の信心では、こうした生き方の出来ることを最も大切なこととします。そのためには、どうしても「〈おじひ〉の親」たるみ仏の実在をいただききる体験をせねばなりません。そして、こういう体験を本当に大事にするが故に「中山身語正宗は、体験の宗教である」といってきたのです。すなわち、中山身語正宗の信心において、人間が経験するであろう「ありとあらゆる経験をすること」を求めるものではなく、ただ一つ「〈おじひ〉の親」たるみ仏の実在を確信することのできる体験だけを真に求める大事さが説かれてきたのです。
宗教的体験と常識的な体験の違いが少しは解っていただけましたか。

こすもす 345号より


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