平成23年・バックナンバー

平成23年12月
初めての方のための「身語正」入門[10]


近年わたしたちは、「スピリチュアル」なものを好む傾向が強まっているように思えます。そんな風潮の中にあって、中山身語正宗の信心をする者が最も目指さねばならないものとは、一体何でしょうか。それを、本宗の信心の土台を眺め直すことで、もう一度考え、味わい直してみましょう。

学びの森

本宗の信心をする者が最も目指さねばならないものとは
近年、わたしたちの心は、「千の風」に吹かれ、「おくりびと」に涙し、「手紙」に胸を締めつけられています。こうして、わたしたちの心を捉(とら)え続けるものの根底にあるものを「スピリチュアル」なものとして受けとめてきました。そして、この「スピリチュアル」なものと「宗教」の根底にあるものとが、まるで同質なもののように論じられたり、逆にその違いを言い立てたりする風潮が波立つ池面のような様子を現代は呈(てい)しています。

では、中山身語正宗という信仰はこうした現状に対峙(たいじ)した時、どのように自分たちのことを語るのでしょうか。
中山身語正宗は、「何か」に対峙する時には、いつも一つの立場に立っている自分を確認します。それは「ただ食べて、寝て、泣いて、笑うてこの世を発って行くだけならば、他の生き物と変わるところはない。人間として生まれてきた所詮(目的)は、〈真実ご法のおみのりを授かる〉ことにあり」
という宗祖上人のおことば。それと「わたしたちは、親(それも無数の親、すなわちわたしの血に連なるご先祖様たち)を通して授かったこのかけがえのない〈いのち〉を、どの様に生きつづけ、また、授かったこの自分の〈いのち〉は、この自分しか生きることができない事実を踏まえ、〈わたしは、このわたしのいのちをいかに生きるべきか〉。すなわち、どのような生き方をすべきか」ということを真剣に模索することこそ、自分が生きるということの本当の意味だと確信する立場です。

仏教という信仰には、一つの明確な目標があります。「さとる」ことによって、仏のような完成された自分になる(これが成仏の本当の意味)という目標がそれです。そして、仏教の信心をする者は、この目標を自分のこととして実現しようと努力せんがため、授かった「いのち」を使って、それを目指して努力することを「自分のなすべき生き方」として選ぶのだと信じてきました。
中山身語正宗の信心では、こうした信仰者としての「自分(本宗では、こうした自覚を持つ者を身語正行者とみ仏から呼んでいただき、真の菩薩として生きよといっていただく)になれ」
として、み仏からその具体的な手助けをいただくことを、〈おじひ〉の体験を通して確信させられてきたのです。

〈おじひ〉を授けていただいて、〈おじひ〉のままに生きることで、正しく「み仏のこころ」をいただくことができた身語正行者は、嘘、偽りではなく、本当に成仏への道を歩かせていただいているという確信を得、本宗の信心をする者にとっての最高の醍醐味を味わうのです。
この醍醐味を余すところなく味わい尽くされた「大先達(だいせんだつ)」こそ、わたしたちは宗祖覚恵上人に外(ほか)ならないと確信させていただいております。
宗祖上人のご生涯は、「真実ご法のおみのりを授かり」尽くされたものであったのです。 そこには、心身にわたる汲めども尽きることのない喜びと、安らぎと充足とが溢れていて、それを縁ある全ての人々へと分け与えられる豊かさが文字通りにあったのです。

こすもす 344号より


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