平成23年・バックナンバー

平成23年9月
初めての方のための「身語正」入門[7]


仏教という信仰(宗教)における「仏(ブッダ)」の特性をどのように理解していくかということは、仏教それ自体の理解の仕方の上で、とても重要な点をしめています。なぜなら、仏教は「こころを問う信仰(宗教)」だと確信される程、「こころ」の問題に重点が置かれているからです。 学びの森

み仏の〈おじひ〉とは、み仏の明かして下さる「こころ」
仏教の「仏(ブッダ)」は、この世界を創造したり、すべての「生命(いのち)」を生み出したりする存在ではないと前回お話させていただきました。では、「仏」とは、わたしたちのために何をして下さるのでしょうか。
仏教の考えの中には、すべての「生命」がそれぞれに「身体(からだ)」を持ち、その「身体」は、自分の内にある「生命」を自分で生きていかなければならないものとしています。ですから、すべての「身体」は、自分の「生命」をいかに生きるべきかが問われ、それぞれの「身体」にとってそれが生きる上での最大の課題になっているのです。

人間以外の動物や植物、その他の「生命」あるすべてのものは、生命を持つ身体が「自分の生命を生きぬくため」ひたすら生き続けている現実をわたしたちは知っています。そして、その生き方の大原則がどこにあるのかを明らかにした博物学者の一人こそ、生命の進化論を唱えたダーウィンでした。
そんな中にあって、人は「なぜ生きないといけないの」「なぜ死んではいけないの」「なぜ殺してはいけないの」と問いかけてきました。その問いかけの根本にあったものは、自分の内側に「生命」を持った「身体」としての人(わたし)が、その「生命」を自分がいかに生きるかという生命を持つ「身体」自身の当然の課題に「なぜ」と問いかけてしまったことを明らかにしています。

人間は、他の「生命」を持つ「身体」としての生き物とは、全く違った生き物への道を歩いてしまったのです。それは、人間が他の「生命」を持つ「身体」としての生き物と全く別の「生き物」になってしまったということではありません。生き物という点では、他の生き物と何ら別個なものにはなっていないのに、「こころ(ものの見方、考え方)」において、全く異なった生き物になってしまった、ということです。
そのため、仏教では、「あらゆるものの中心に“心”をおいた」(B・R・アンベードカル『ブッダとそのダンマ』光文社新書)といわれるのです。

では、わたしたちの「心(こころ)」とは、一体いかなるものなのか。こうして人間は、人間の「心(こころ・すなわちものの見方、考え方)」の正体を明らかにしようという追求をあくことなく続けてきました。これが哲学であり宗教だったのです。
仏教の開祖「釈尊」も当然のごとくそれを追い求められました。こうして仏教は「心(こころ)」の解明を通して、人間の「なぜ」という問いかけに応えていこうとしたのです。ですから仏教の「仏」がわたしたちにして下さろうとしていることは、わたしたちの「こころ(ものの見方、考え方)」をいかに「正しいもの」へと導くか、ということだったのです。そして「こころ」が仏教的な「正しさ」に向かっていった時、み仏は、わたしたちの身心を覆(おお)う迷いや悩み、苦しみを克服できるのだと示して下さったのです。
中山身語正宗の教主「根本大悲の親(ご本尊中山不動尊)」がわたしたちに「して下さる」ことも、まさしくこれに他なりません。
み仏の〈おじひ〉とは、み仏の明(あ)かして下さる「こころ」なのです。

こすもす 339号より


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