平成23年・バックナンバー

平成23年8月
初めての方のための「身語正」入門[6]


中山身語正宗は、今から100年前に「立教(その教えがこの世に持ち出されること)」された仏教の新しい信心(宗教的実践。各派のこうした宗教的実践が仏教では〈法門〉とも呼ばれます)です。では、本宗が定義的に呼ばれることばの一つひとつについて詳しく見ていきたいと思います。      学びの森
ご本尊中山不動尊が祀られている大本堂内陣

中山身語正宗とは「身語正」という仏教の信心に基づく宗団
〈おじひ〉のこと、〈おじひ〉を授かるということについて、少々長々とお話ししすぎたようです。
では今一度、『身語正』入門という本来のテーマに立ち戻ることにしましょう。
中山身語正宗は、今から100年前、み仏の〈おじひ〉のままに、宗祖覚恵上人によって「立教」されました。
そこで本宗では、中山身語正宗とは身語正教主「根本大悲の親(ご本尊中山不動尊)」が宗祖上人に託して持ち出された、「身語正」という仏教の信心(法門)に基づく宗団です、と定義的にいっています。

「身語正教主」とは、「身語正」という仏教の信心を宗祖上人に託して下さった本宗の「教え主」たるみ仏のことです。
仏教は、本来「釈尊(しゃくそん)(古代インド世界にあった釈迦(しゃか)族と呼ばれる部族の王子として生まれ、後に仏教の開祖となられた〈釈迦族出身の尊者〉ゴータマ・シッダールタのこと)」を教主とする宗教です。後に「大乗(だいじょう)仏教」と呼ばれる新しい信仰運動が興(おこ)り、この大乗仏教の教学の中で「三世十方(さんぜじっぽう)の諸仏」と総称されるたくさんの「み仏たち」が尊崇(そんすう)されるようになりました。その結果、大乗仏教の中で一宗一派を称(とな)えるようになった宗派の中には、自らの「教え主」を釈尊以外のみ仏に求める宗派も生まれてきました。例えば、浄土教では阿弥陀如来、密教では大日如来がそれです。

中山身語正宗の教主は、「身語正」という仏教の信心を宗祖上人に託すに当って、自らのことを「根本大悲の親」と名告(なの)られ、この世に相(すがた)を現す時には、「赤身(せきしん)で並眼(へいがん)の立ち姿の不動尊」として「中山」と古くから呼ばれていた現在の基山の地に出ると明言されました。そのため、中山身語正宗では、中山の地に不動尊として出られた「中山不動尊」をもってご本尊としているのです。
こうした一連の出来事は、宗祖上人が、この「教主」から直々(じきじき)授かられた〈おじひ〉の体験に基づいて定まったものです。
仏教の「仏(ブッダ)」は、本来「さとりを開いた覚者」のことです。すなわち、「仏(ブッダ)」とは、「さとり(さとりの本質は、絶対的な真理である〈法(ダルマ)〉)と一体になった人」のことです。ですから、後の仏教では、この〈法(ダルマ)〉を人格化したものをも「仏」と呼ぶようになります。

中山身語正宗の教主は、この〈法(ダルマ)〉を人格化して考えた時のみ仏に他なりません。ですから、キリスト教等の「唯一絶対の創造神」としての「ゴッド(神)」とは全く異なったものです。仏教において〈法(ダルマ)〉を人格化した時のみ仏は、この世界を創造したりはしません。むしろ「事実として現前(げんぜん)しているあるがままの世界」の根底を貫く真理、原理を指しています。
ですから、仏教の「み仏」は、世界も人間も創らず、そこにあるものに生命(いのち)を与え、あるいは奪うこともありません。ただただ、そこにある全てのものごとが「あるがままにある」その絶対的な法則、原理そのものなのです。
こうした「仏」を、正しく理解することは、とても難しいと感じられることが多いようです。

こすもす 338号より


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