平成22年・バックナンバー

平成22年10月
「身語正教学」講義[27]


テキスト『身語正教学』は、宗祖覚恵上人が身語正教主「根本大悲の親(すなわちご本尊中山不動尊)」から直々授かられた「み教え」と「ご信心」がどのようなものであったかを、体系的に明らかにしようとするものです。テキストを傍(かたわら)に、共々学びましょう。 学びの森

「身に正しく如来のことばを授かる」といわれる、その「身」とは
中山身語正宗の「信心(宗教的実践)」とは、いかなるものであるか。その「信心」のみちしるべとして身語正第二世覚照猊下によって明文化された『おさづけ』については、既にその概要をお話させていただきました。
そこで今回からは、中山身語正宗の「信心」が、どのように「理論的体系的に説明、理解されているか」を明らかにする本宗の「教学」に立ち戻ることにさせていただきます。

中山身語正宗の「信心」を理論的体系的に説明していくためには、み仏が本宗の「信心」の要(かなめ)にあるものを「身語正(すなわち、身に正(まさ)しく如来の語(ことば)を授かる、という意味)」と説かれた意味を味わい直しておかねばなりません。
ここでいわれる「身(身に)」とは、わたしたち一人ひとりの「身心」を指しています。すなわち、ことばを換えていうと、わたしたち一人ひとりのこと、です。
今、ここに、このようにして生きている「わたし」たち一人ひとりには、生きた「身体」があり、その身体の中で一瞬たりともその活動を止めることのない精神的な活動が働いています。この二つは、「精神」と「肉体」とか、「霊」「肉」とか呼ばれてきました。「身体」と「心」というのもその一つです。
そして、人間の「身体(肉体)」は、生物学的な意味において他の動物のそれと大同小異なものと見なされてきました。その結果、全ての動物が自分の肉体の保全と維持のためにその生涯の全てをかけるように、わたしたち人間も基本的に「生き続けよう」として、自らの肉体の保全と維持に精一杯の努力をするのが当然とされてきました。これが「生存欲」や「種の保存、継続」を第一にしようとする「生命のすがた」に他ならないというのです。

わたしたちは、「自分のいのちをいかに存続させるべきか」を無意識の内に求めている、といいます。
ところが、人間には、こうした本能的な欲求と相反(あいはん)するような欲求の現れることも認められます。それは、自分の存在を否定したいという思いから発する「自殺への欲求」として現れるものです。
人間以外の動物は、「自殺しない」ともいわれますので、もしそれが本当なら「自殺への欲求」は、人間の肉体が本来持っているという「生き続けよう」とする思いよりも強い、何か精神的なものに起因する、と想定するしかないのかもしれません。それは、人間には「このいのちをいかに存続させるか」という思いと同時に、「このいのちを〈いかに生きるか〉、すなわち、人としてどのような生き方をするのか」という欲求のあることに気付くことで、一つのヒントを見い出すことができます。

わたしたち人間は、決して自分のいのちの保全や存続だけを願って生きているのではない。むしろ、自分の「いのち」をどう生きるかを考え求め、そこに精神的な得心、確信が得られたら、あるいは逆に得られなかったら、自分のいのちの存続よりも別な形の選択をすることもあるのではないか、ということです。実は、この選択は、わたしたちの「ものの見方、考え方(すなわち、こころ)」と密接につながっています。

こすもす 324号より


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