平成22年・バックナンバー

平成22年8月
「身語正教学」講義[25]


テキスト『身語正教学』は、宗祖覚恵上人が身語正教主「根本大悲の親(すなわちご本尊中山不動尊)」から直々授かられた「み教え」と「ご信心」がどのようなものであったかを、体系的に明らかにしようとするものです。テキストを傍(かたわら)に、共々学びましょう。 学びの森

最上の喜びにひたられる宗祖。その味わいを大切にする第四条
では、『おさづけ』第四条には、何が説かれているのでしょうか。
ここには、中山身語正宗の信心がどのように実践されるべきかが示されています。まず、本宗の信心の目的の一つが「修養」にあること。そして、「修養」は、わたしたちの足下から着実に実践されるべきであること。そして、その実践に向かう時のわたしたちのみ仏に向かう向かい方は、「私程浅ましい者はも一人と外(ほか)にありません。愚痴愚鈍(ぐちぐどん)の覚恵」といわれた宗祖上人と同じものでなければならない、ということです。

中山身語正宗の信心をさせていただくわたしたちは、み仏から、「末世(まっせ)の衆生」と呼ばれます。「末世」とは、辞書的な解釈では「道義のすたれた、すえの世」と説明されます。道義がすたれるとは、正しいことが文字通り、誰にとっても「正しいこと」と認識されることがなく、異論が百出するような時代ということです。詭弁(きべん)やへつらい、歪曲(わいきょく)や威圧(いあつ)など、さまざまな方法が駆使(くし)されて道義(人の行うべき正しい道)が多くの人々から「大切なもの」として見守られなくなってしまう時代になるということです。すなわち、み仏がわたしたちを「末世の衆生」と呼ばれる理由は、わたしたちの心の中にこのような思いが沸々(ふつふつ)と湧き上がり易くなっていることを指し示されるがためです。それは別のことばでいうと「私程浅ましい者はも一人と外にない」ということでもあります。

中山身語正宗の信心においては、この信心をさせていただくわたくしたち自身が、自分を未熟で自己中心的で、損得勘定についつい走りがちな、そんな身勝手さが勝る人間であることを自覚するが故に、「み仏様どうぞこのわたしを正しくお導き下さい」と祈らずにはおれない心持になることの大切さが説かれます。
今、現在のわたしがあまりに未熟な人間であると思えるからこそ、この信心を通して「修養(精神を錬磨(れんま)し、高度の人格を形成しようとつとめること)」を目指させていただくのであり、その修養が実っていくためには、足下からの着実な実践に裏打ちされていなくてはならない、と教えていただくのです。
宗教(信仰)というものが、常に絶対的な存在である「神」や「仏」あるいは「真理」を立てて、それに対した時の人間(わたしたち自身)を大変「小さく、弱く、愚(おろ)かな」存在として捉えようとする理由は、前に述べた本宗におけるような考え方をすることの大切さに気づかせようとするためではなかったのでしょうか。

では、わたしたちは「ただただ自分を卑下(ひげ)すればいい」のでしょうか。いえ、決してそうではありません。身語正第二世覚照猊下は、『おさづけ』第四条にあげられる宗祖上人のおことばについて、「宗祖上人がこのことばを口になさっていた時、宗祖上人は、最上のよろこびにひたっている自分を語っておられたのだ」と説明されていました。すなわち、宗祖上人は、自分自身の未熟さ、足りなさをひしひしと実感し、み仏に心底からすがりきると、そんな自分をみ仏が包み込み、支え、見守り、お導き下さることが、本当にわかるのだ、といわれるのです。第四条はこの味わいを大切にする条なのです。

こすもす 319号より


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