平成21年・バックナンバー

平成21年7月
「身語正教学」講義[12]


テキスト『身語正教学』は、宗祖覚恵上人が身語正教主「根本大悲の親(すなわちご本尊中山不動尊)」から直々授かられた「み教え」と「ご信心」がどのようなものであったかを、体系的に明らかにしようとするものです。テキストを傍(かたわら)に、共々学びましょう。 学びの森

「こころ」の平安こそが仏教の信心の大道
宗祖覚恵上人の宗教体験から始まった中山身語正宗の信心は、この信心をさせていただく全ての「宗人」が、自分のこととして「宗教体験」を授かり、〈おじひ〉のままに生ききれる「身語正行者」となって、真実の仏教の大道を行く「菩薩」となることを目指せ、といわれる信心です。
では、中山身語正宗の信心をする「身語正行者」の歩くべき仏教の信心の大道とは「いかなるもの」なのか、しばらくご一緒に考えていくことにしましょう。

仏教は、開祖である釈尊が菩提樹の大木の下で静かに瞑想(めいそう)される中で発見された「真理」に基づいて「生きる」信心です。釈尊の発見された真理とは、この世界が「縁起」することによって成り立っていること。そのため、この世界の一切の物事は常に変化し続け、一瞬たりとも滞(とどま)ることがないこと。だからこそ、わたしたちの「こころ(ものの見方、考え方)」にこだわりを持ってはならないこと。こだわりを持つことなく生きる生き方には、真実の安らぎが現れ出てくることが、その内容として示されています。
仏教の信心の大道をゆく人は、仏教の説く真理に基づく生き方が身に具(そな)わっていかねばなりません。それは、「こころ」に平安の満ち溢れた生き方をするということです。

仏教では、いつの時代、いかなる場所に暮らす人間であっても、共通して持っている特徴は、「こころ」に不安、いらだち、疑い、迷いなどが溢れて、決して平安に安住できていないことだとします。そして、そうした人間を「凡夫(ぼんぷ)」と呼ぶのです。
これに対して、「こころ」に真実の平安を実現し、決して「こころ」を乱すことのない人を「仏(ほとけ)(覚者(さとったもの))」といいます。そして、仏教では、人は「凡夫」から「仏(覚者)」へと向かうべく修行の道に入っていくことが最も大事なこと、とするのです。
では、仏教でいう「こころ」の平安とは、どのような意味なのでしょうか。「こころ」の平安は、正しいものの見方、考え方が身に具(そな)わることによって初めて実現する。これが仏教の確信です。そのため、仏教は「こころ」を最も大切にする信心だともいわれるのです。

「こころ」を大切にする仏教は、この世界にあるいかなる「物事」にも絶対的な価値を置こうとはしません。そのため「物(一切の物質的な存在)」や「事(出来事の意味で、物質ではない一切の現象)」に人間にとって最も大事なものを見つけ出そうとする努力をしたりしないのです。そして、ただただ自(みずか)らの「こころ」の在り方を問い直し、問い正していこうとするのです。
「こころ」の在り方を問い直し、問い正していくとは、「ものの見方、考え方」を問い直し、問い正していくということに他(ほか)なりません。
「こころ」、すなわち「ものの見方、考え方」とは、本当に難しい問題です。しかし、よくよく考えてみると、自(おの)ずと判ってくるように、人間の行動は、その人のもっているものの見方、考え方に左右されて現れてくるものなのです。ですから、人間の生き方の根本にあったものは正(まさ)しく「こころ」に他ならないですね。

こすもす 301号より


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