平成21年・バックナンバー

平成21年6月
「身語正教学」講義[11]


テキスト『身語正教学』は、宗祖覚恵上人が身語正教主「根本大悲の親(すなわちご本尊中山不動尊)」から直々授かられた「み教え」と「ご信心」がどのようなものであったかを、体系的に明らかにしようとするものです。テキストを傍(かたわら)に、共々学びましょう。 学びの森

〈おじひ〉のままに生きる「身語正行者」の幸せ
中山身語正宗の信心をする人は、本宗における〈僧・俗〉の区別なく「行ずる者(行者。すなわち身語正の信心を自らの心身をもって実践・実行する者という意味を込めて身語正行者と呼ばれる)」でなくてはならないと確信されています。すなわち「身語正行者」とは、
「中山身語正宗の信心を、自らの心身のすべてをもって実践、実行する人」ということです。
では、中山身語正宗の信心を実践するとは、一体どういうことでしょうか。それが前回お話させていただいた「〈おじひ〉のままに生きる」ということだったのです。

中山身語正宗の信心の実践者である「身語正行者」にとって、〈おじひ〉のままに生きるという生き方は最良、最高の生き方であると確信されています。なぜなら、それが「わたしの〈いのち〉を最も輝いたものとして生きる」ことに他ならないからです。
〈おじひ〉のままに生ききれている時、その人の心は実に穏(おだ)やかで生気(せいき)に溢(あふ)れています。そして、いかなる障害に出会ったとしても、決して動じることがありません。その時の生きざまが「病を受ける身」であるとしても、「貧しさに堪(た)えねばならない身」であるとしても「克服(こくふく)し難(がた)い障害にはばまれた身」であるとしても、です。なぜなら、み仏の授けて下さる〈おじひ〉のままに生きる限り、その先にはっきりと「道開(みちあ)け」のあることが確信できるからです。
中山身語正宗の信心における〈おじひ〉とは、常にそのようなものとして確信されてきました。ですから〈おじひ〉のままに生ききれた身語正行者は、一人の例外もなく
「わたくし程幸せな者がも一人と外にあるだろうか」
と、心底から告白されるのです。

中山身語正宗の信心における〈おじひ〉とは、決して超自然な力ではありません。わたしの〈いのち〉を真剣に生ききろうとする人に対して「その人が必ずなし得る」ことを的確に示していただく、わたしの「可能性」の範囲での、わたしの「気付くことのなかった」能力と密接に結びついた、み仏からのご指示なのだと確信させていただいています。
ですから、〈おじひ〉ならば必ず「なし遂げられる」のであり、〈おじひ〉のままになすが故に、必ずそう「なる」のです。

身語正行者は、当初こうした〈おじひ〉を信ずることも、想像することすら難しい状況で、それに取り組みます。なぜそんなことが実際にできるのでしょうか、それは、み仏が宗祖上人がおっしゃって下さるように、このわたしが「せっぱつまった土壇場(どたんば)」に居る時に、応々このご縁をいただかせていただくからです。ですから、本宗の信心では、その信心の最初に、わたしがそういう状況にあることを「最良の良縁に遭える好機」として、あたたかくみ仏から見守っていただくのだというのです。
そして、この最初の出会いを通して、かけがえのない宗教体験を得ることで、一人の「身語正行者」に生まれ変わるきっかけを得るのです。
中山身語正宗の信心では、この最初の宗教体験が非常に大切なことと認識されるのは、こうした理由があったからなのです。

こすもす 299号より


学びの森・バックナンバーはこちら

サイトマップ ページトップへ

Copyright 中山身語正宗 All Rights Reserved.