平成21年・バックナンバー

平成21年3月
「身語正教学」講義[8]


テキスト『身語正教学』は、宗祖覚恵上人が身語正教主「根本大悲の親(すなわちご本尊中山不動尊)」から直々授かられた「み教え」と「ご信心」がどのようなものであったかを、体系的に明らかにしようとするものです。テキストを傍(かたわら)に、共々学びましょう。 学びの森
2月18日に厳修された立教柴燈大護摩祈願祭

思いやりや優しさといった人の心から生まれてくる悲の実践
身語正第二世覚照猊下が高野山大学を卒業され、帰郷された昭和8年3月の宗祖上人とのエピソードは、本連載の第4回目にご紹介させていただきました。そして、このエピソードの中の「人としてこの世に生まれて、何をすることが一番よいことか…」の部分に「慈の実践とは何か」が明らかにされていることを指摘させていただき、その内容を3回にわたってご説明してきました。

今回は、このエピソードの中に説かれるもう一つのテーマ、「悲の実践とは何か」についてお話していくことにいたします。
大学を卒業して帰郷したばかりの覚照猊下に宗祖上人は、更に次のようにいわれます。
「覚照、これからのお前に最も大切なことは、信を仏において、ただひたすらみ仏にすがりぬき、〈おじひ〉のままに生きることだ。そのためにも、これから7年間大学で学んだことは全て忘れ、ただ仏様のいわれるままに〈ハイ〉といってすすんでくれ」と。
この宗祖上人のおことばの裏には宗祖上人の次のような信念があったと確信させていただきます。それは『わたしは、一文不知(いちもんふち)の身ではあるが、その故(ゆえ)にみ仏は大慈大悲をこの身にかけて下さり、衆生済度のお手伝いをさせて下さっている。そして、そのお手伝いのありがたさ、尊さを一番よくかみしめさせていただいているのがこのわたし自身なのだ。だから、身語正の法灯を確かに継承して欲しいお前にも、このありがたさ尊さを心底からかみしめて欲しいのだよ』というみこころであったということです。
宗祖上人がみ仏のみこころのままにこの世に持ち出された「身語正」という仏教の信心(法門)は、一人ひとりの人間を真に「活(い)かし切ろう」として、わたしたち一人ひとりを導いて下さるみ仏の実在を確信させて
いただくところに、その醍醐味があると信じさせていただきます。そして、そうした生き方は、〈おじひ〉のままに生きる時、実感を持って実現されるのです。

また、み仏はこうも教えて下さいます。人間は、自分のために「願う」時、知らぬ間に我欲我慢にまみれたものの見方、考え方をしてしまうものだ。だから、そんな願いを基にした「頼む一念」には、知らぬ間に思い込みが溢れてしまう。しかし、他人の悩み苦しむ姿を「わがこと」のように受けとめて、その時自分がその他人(ひと)のために何一つしてあげられないことを痛感し、その故「仏様、あの人を助けてあげて下さい」とすがりきれた時、そこには我欲我慢の入る余地のない「悲」の心があるといわれるのです。そして、そこから生まれてくる行願には、み仏の大加被力が働く故に〈おじひ〉がしっかりと授けていただけるといわれます。こうして授かる〈おじひ〉に基づく衆生済度こそ、身語正行者の必ず身につけてほしい行願なのだ。だからこそ、宗祖上人はそれを身語正の第二世となるはずの覚照猊下に身につけて欲しいと願われたのです。
  「悲の実践」は、単なる知識の修得からだけでは生まれてきません。他人に対する深い思いやり、やさしさといった「人間のこころ」から初めて生まれてくるものなのです。

こすもす 296号より


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