平成20年・バックナンバー

平成20年10月
「身語正教学」講義[3]


テキスト『身語正教学』は、宗祖覚恵上人が身語正教主「根本大悲の親(すなわちご本尊中山不動尊)」から直々授かられた「み教え」と「ご信心」がどのようなものであったかを、体系的に明らかにしようとするものです。テキストを傍(かたわら)に、共々学びましょう。 学びの森

仏教の大道に則した身語正信心の、まずは正しい理解を
「ご成就」を授かって、「身語正」という仏教の信心(法門)を歩かせていただこうとするわたしたちは、この信心が「どのように仏教の大道と重なり合っているのか」を正しく理解しておかなくてはなりません。
仏教という信心は、自(みずか)らをみ仏のような人格に仕上げようとする信心です。そして、それを主に「心の働き」の面で実現しようとします。ここでいう「心」とは、「ものの見方、考え方」のことです。すなわち、仏教という信心は、わたしたちが「どのようなものの見方、考え方」をして、そこから「どのような行(おこな)い」を生み出し、それがみ仏のような人格にふさわしいものになっていくかを問おうとする信心なのです。

そして仏教では、仏教的に正しいとされる「ものの見方、考え方」を「智慧」と呼びます。そして、その智慧から生み出される行いを「慈・悲行」と捉(とら)えるのです。ですから、仏教における最も理想的な人格である「み仏」は、智慧の人であり、大慈・大悲の実践者に他なりません。
このみ仏に比べて、わたしたち人間は「迷いの存在」であるといわれます。すなわち、仏教的に正しいものの見方、考え方がまだ本当に身についていないのです。そのため、人間はさまざまな「間違ったものの見方、考え方」をしてしまい、その結果「慈・悲」心や「慈・悲」行の乏(とぼ)しい生き方をしてしまうのです。

にもかかわらず仏教では、人間には本来「仏」に通ずるもの(これを仏性といいます)が具(そな)わっているので、人間の行いの中には間違いなく「慈・悲」心と「慈・悲」行があるといいます。そして、「身語正」という仏教の信心(法門)においてはみ仏はわたしたちに「みんなが持っているその慈・悲心と慈・悲行とを発動させて、まず互いに相手をよろこばせ合えるようにしなさい。そして、その活動を通して真実の智慧をわがものとしていきなさい」と教え諭し、導いて下さるのです。
ですから、「身語正」という仏教の信心では、わたしたち一人ひとりが「まず慈・悲の実践者になろう」と決意し、具体的な行動を起こすことが求められるのです。

「慈」の実践とは、親を、ご先祖様を、世の人々をよろこばせる行いをすることです。「悲」の実践とは、相手の人の苦しみをわがことのように深く共感し、その人がその苦しみをみごとに克服して下さるように願ってみ仏に至心にすがらせていただきみ仏の〈おじひ〉のままにお手伝いをさせていただくことです。
このようにして、「身語正」という仏教の信心(法門)を歩かせていただくと、仏教がその大道として捉えていた行願そのものを、正しく歩かせていただくことになります。そのため「身語正」という仏教の信心の実践者である「身語正行者」は、み仏から「真(まこと)の菩薩」とも呼んでいただけるのです。

では、わたしたちは、み仏の願っていただく「慈・悲」の実践者となっていくために、具体的にどのようなことをしていったらいいのか、次回から詳しく考えていくことにしたいと思います。そして、わたしたち一人ひとりが、真の「身語正行者」としての自負をもって、日々の行願に励みたいと思います。

こすもす 291号より


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