平成20年・バックナンバー

平成20年5月
講座「身語正教学」[10]


宗祖上人の最期のおことばは「夫(そ)レ信ヲ学ニオクナカレ、信ヲ人ニオクナカレ、当(まさ)ニ信ヲ仏ニオクベシ」というものでした。それは正しく「身語正」という仏教の信心の要であり、この信心の醍醐味を伝えようとすることばでもあったのです。そんな境地に入るためのヒントを今回は考えてみることにしました。 学びの森

体験を土台にしてこそ現れ出る「信ヲ仏ニオク」姿
「身語正」という仏教の信心は「身に正しく如来の語(ことば)を授かる」という信心であるといわれる通り、み仏からわたしたち一人ひとりが導いていただき、育てていただく信心です。ですから、わたしたちの信心の要には「信ヲ仏ニオク」という姿がなくてはなりません。
「信ヲ仏ニオク」とは、実は分かったようでとても奥の深い境地で、現実にそれを自分のものにすることはなかなか容易ではありません。

では、それを自分のものにするには、一体どうしたらいいのでしょうか。宗祖上人はみ仏から、それは「赤子になって三歳児(みつご)になって、伊達をすて、飾りをすてることだ」と授かられたのです。
赤子や三歳児は「自分の力で何でも出来る」とは、決して思っていません。ところが自分の興味を引くものに出会うと、何にでも自分の手を出し、それをつかんでは口に入れてしっかり自分で味わい尽くそうとします。そして、それが自分にとって不都合なことであることが判明すると、ただただ大声で泣き叫び、そこに母親の姿を見つけると、涙やよだれでグチュグチュにした顔のまんま、手のまんまで母親にすがりついていくのです。「赤子になって、三歳児になって、伊達をすて飾りをすてて」といわれるみ仏のおことばは正(まさ)しくこんな子供たちの姿をそっくり、そのまま示して下さっていたのではなかったでしょうか。そして「信ヲ仏ニオク」わたしたちの姿はこうした赤子、三歳児の姿に相通ずるものを持てた時に、実現するといわれているに違いありません。

では、わたしたちがこんな姿になりきれるためには、何が必要なのでしょうか。それは、赤子、三歳児にとっての母親に当る、わたしたちにとっての「み仏」の存在であり、そのみ仏に対する絶対的な帰依心であったはずです。
この絶対帰依心は、理屈理論で十分納得できるように説いていただいた時に生まれてくるのではありません。そんな理論理屈とは関係のない「そうとしか思えない」という確信から生まれてくるのです。
こう考えてくると「信ヲ仏ニオク」ためには、そうさせていただける、あるいは、そうしていいと信ずるに足る、疑いようのない体験がその土台になくてはならないことが直感できます。そこで「身語正」という仏教の信心は、まず最初に「仏智の大功徳を目の前に授けて驚かさなければ、信ずる心にならんのだ」と〈おじひ〉にいっていただくのです。

そして、そうした体験は、わたしたち自身が「せっぱつまったどたん場」に置かれた時、実に素直に体験していけるのだといわれます。
わたしたちにとって、この最初の「どたん場」は、いつ、どのようにして現れ出てくるのでしょうか。赤子、三歳児にとっては、自分の意識が自覚的なものになった時、絶対的に「自分のためにだけいてくれる母親」を受け入れた時に現れてくるに違いありません。もしそうだとするならば、み仏への絶対帰依心である「信ヲ仏ニオク」というわたしたちの姿も「わたしのためにだけいて下さるみ仏を、わたしが受け入れた」時に、現れ出るはずです。

こすもす 274号より


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