平成20年・バックナンバー

平成20年3月
講座「身語正教学」[8]


中山身語正宗の信心は「仏一つを目当てにする信心だ」といわれます。そして、その信心は「信行一如」であれともいわれています。そこで今回は、わたしたちの「信」「行」の向かうべきところである「仏」について改めて考えてみることにしたいと思います。そして本宗の「教主」と「ご本尊」に思いを馳せてみました。 学びの森

「信行一如」で歩む身語正信心、そしてご本尊中山不動尊
中山身語正宗の信心では、身語正第二世覚照猊下がご生前、ご自身の座右の銘としてこられた「信行一如」ということばを大切にさせていただいています。
「信行一如」とは、信ずるといえども行ぜざれば、信にはあらず。行ずるといえども信ぜざれば、行にはあらず。「信」と「行」とが一如となっていることこそが最も大事、という意味です。

仏教において「信」は、わたしたちが〈さとり〉に至ろうとする時、なくてはならない原動力となるものであるとされます。そして本宗においては、宗祖覚恵上人の最期のおことばである
「夫(そ)レ信ヲ学ニオクナカレ、信ヲ人ニオクナカレ、当(まさ)ニ信ヲ仏ニオクベシ」
にある通り、まさしく「仏」に対して置かれるべきものとされています。そして「行」については、
「行とは、行くこと。仏に向かって行くことだ」
と宗祖上人によって諭されています。すなわち、本宗の信心においては「仏に信を置き、仏に向かって行くこと」が「信」「行」であり、信と行とが一如となってこそ、本当の本宗の信心なのです。

では、本宗でいうところの「仏」とは何でしょうか。
本宗の信心では、わたしたちが仏に向かって「頼む一念」のまことをもって至心にすがりついていくならば、仏は必ず〈おじひ〉をわたしたちに授けるという形で応えて下さる存在です。そして、み仏は〈おじひ〉のままに行ずるわたしたちに、み仏のみこころを気づかせようともして下さり、わたしたち自身がみごとに〈さとり〉を具現できるよう手助けもして下さるのです。
こう考えてくると、本宗の信心において「仏」が、本当に重要な存在として位置づけられていることが改めて確信されます。そして、本宗において「仏」とは、まず第一に「身語正教主」とされる「根本大悲の親」であり、このみ仏がわたくしたちのために現世に「中山不動」と世に出られたご本尊「中山不動尊」でなくてはならないことを確信させられるのです。

では、身語正教主「根本大悲の親」すなわちご本尊「中山不動尊」とはどのようなみ仏なのでしょうか。
身語正教主「根本大悲の親」は、そのお名前にはっきりと明示されているように、わたしたち一切衆生を悩み、苦しむ存在と見て下さり、そんなわたしたちに「お前一人を泣かせはせんぞ。この親もろ共ぞ」と大悲のみこころをかけて、わたしたちをいかにすれば本当に助けていけるのかを日夜お手回しして下さっています。そして、その「助かりの道」をわたしたち一人ひとりに具体的に〈おじひ〉を通して示して下さり、その道を歩もうとするわたしたちを支えるため「中山不動尊」となってこの世に出ていただき、励まし、共々に行じていただくのです。
こうした「み仏」に支えていただく本宗の信心は、み仏のみこころのままに、すなわち〈おじひ〉のままに行ずる信心であり、その行願の中に、まさしく本宗の信心の真髄が凝縮されているといえるのです。

こすもす 272号より


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