平成20年・バックナンバー

平成20年2月
講座「身語正教学」[7]


「身語正」という仏教の信心をする者に対して、み仏が教えて下さることの1つが「私程浅ましい者はも一人と外にありません。愚痴愚鈍の覚恵」と告白された宗祖上人のみこころです。身語正の信心は、だれにでもできる信心であるという意味「生まれおくれた」わたしのための信心だという意味を味わい直しましょう。 学びの森
大本堂前の「宗祖上人ご示寂の地」

「頼む一念」のまこと一つが大事とされる身語正信心
前回「身語正的な仏教史(特に教学史)に対する見方」がどういうものであったかについてお話しました。そして、仏教2500年の歴史の上に現れ出た主な教学やそれに基づく実践、修行に対して、わたしたちは「生まれおくれた」存在だと身語正教主「根本大悲の親」がおっしゃっていることもご紹介しました。

では、わたしたちが「生まれおくれた」存在だ、というのは一体どういう意味なのでしょうか。
わたしたちが生きている「現在」は、物質的には豊かだけれど、精神的には非常に貧しい時代なのではないか、とよく言われます。信仰とは本来「心」の豊かさを求めようとするものであって、決して物質的な豊かさに到るための道ではありません。だからこそ、真摯(しんし)な信仰者は、清貧(せいひん)を尊び、あえてその道を選ぶことすら少なくなかったのです。
しかし、普通の人間はなかなかそうはなれません。とりあえず物質的に人並な状況に恵まれたいと望んでしまいます。そのため、自分から進んで「清貧」に甘んじるような真摯な求道者、信仰者になりきれないのです。特に、現在の日本のように周りの大半の人々が物質的に、それなりの豊かさを享受(きょうじゅ)しているような時はそうです。逆に周りの大半の人々が日々の暮らしに事欠くような状況の時もそうに違いありません。

本宗が立教されて以来、今日に至るまでの九十余年間の日本は、まさしくそんな状況の日本だったのです。そんな時期、わたしたちは、身語正教主「根本大悲の親」から、
「お前が今、せっぱつまった土壇場の悩み苦しみにもがいているなら〈助けて下さい〉とこの親にすがってこい。必ず助けてやるぞ」 といっていただきます。また、
「人としてこの世に生まれて、何をすることが一番よいことか。それは、親を、ご先祖様を、世の人々をよろこばせることだぞ」
とも諭していただきます。そして「自分も含めてすべての人々の悩み苦しみには解決の道、助かりの道が必ずある故、頼む一念ですがってこい、その道を教え示してやろう。授けた〈おじひ〉は、必ず〈おじひ〉のままに行じてこい。必ずそう〈なる〉ぞ」とも導いていただくのです。
み仏は「生まれおくれた」わたしたちならばこそ、何の条件も、何の前提も置かれることなく「頼む一念」のまこと一つを大切にして下さるのです。
宗祖覚恵上人は、こんな「身語正」の真髄(しんずい)をしっかりと体験してこられたが故に、
「私程浅ましい者はも一人と外にありません。愚痴愚鈍の覚恵」
といわれて、この「生まれおくれ」の身を心底「ありがたい、もったいない」と喜ばれたのです。

ですから「身語正」という仏教の信心をさせていただくわたしたちは「われ知れり。われ学べり。われなせり」と高慢(こうまん)なるうぬぼれを持ってはならないと諭されるのです。
そうではなく、自分自身を「愚痴愚鈍」と自覚するが故に「一つでも学ばせていただきたい。一つでもさせていただきたい」と、常に前に前にと意欲を持って努力する信仰者になろうと願わせていただくのです。

こすもす 271号より


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