平成19年・バックナンバー

平成19年11月
講座「身語正教学」[4]

体系的に「身語正教学」を学ばなくてはならない。こういわれて、身構えて取り組もうとすると、どうしても肩肘張った気持ちが先に立ってしまいます。宗祖上人は物心つく頃から、何の仏教的知識も持たずに、み仏の授けて下さる〈おじひ〉のままに、その〈おじひ〉を通してそれらを身につけられた意味を考えてみて下さい。 学びの森


難しいことは何一つない「身語正」信心。文字面(もじづら)を怖れずに
 中山身語正宗の信心の核心をなす「身語正」という教えは、身語正教主「根本大悲の親」が宗祖上人に託してこの世に持ち出して下さったものです。そのため、身語正第二世覚照猊下はご生前、常々わたしたちに次の様に教え諭して下さっていました。すなわち、
 「一つの正しい宗教、教えというものは決して人間の知恵によって生み出せるものではない。神仏によって初めて持ち出していただけるものだ」と。
 宗祖上人のご生涯を振り返ってみますと、この覚照猊下のおことばがつくづくと実感されます。
 宗祖上人は、物心つく頃からしばしば〈おじひ〉を授かられるようになりました。そして、〈おじひ〉をいただくと、素直に〈おじひ〉のままに動かれるばかりだったのです。

 幼い宗祖上人が突然思いもかけぬことばを口にするのを見た周囲の物知り顔な大人たちは、常に怪訝(けげん)な顔をし、時には「松太郎には狐(きつね)がついとるぞ」と非難することすらあったのです。身内の者から「あまり変なことを口にするものではない」とたしなめられると「自分では言おうと思わんのに、この胸の中に居る人が勝手にそういうのだ」と抗弁するしかなかったのです。
 宗祖上人は、自ら望んで宗教家になろうとされたことは立教のその日まで一度もなかったのです。ですから当然、仏教の勉強もされたことはありません。しかし、その間既に〈おじひ〉のままの衆生済度は次々に行われ、〈おじひ〉のままに自分や他人を教え、戒(いまし)める言行は始まっていたのです。

 こうして身語正教主「根本大悲の親」の〈おじひ〉のままに持ち出され、体系づけられていった「身語正」の教えには、伝統的な仏教史上を彩(いろど)る高僧、名僧の仏教思想に見られる古今の経論を駆使(くし)した思索の跡がほとんど見られません。反対に、試行錯誤を繰り返すが故に生まれてくる思索にはない、実に明確な仏教の全体を見通し、整理し、新たな視点で一つの道を示唆(しさ)する潔(いさぎよ)い信心の道がそこに生み出されています。
 ですから「身語正教学」を正しく学び、身につけていこうとする者にとって、最も求められることは「身語正教学」の中にあるものをただひたすらに、素直に体解しようとする姿なのです。

 身語正教主「根本大悲の親」が宗祖上人に託して持ち出して下さった「身語正」という仏教の信心は、決して難しい信心ではなかったはずです。それは、宗祖上人のお諭し下さるおことばの中に常に示されている通りです。そして、宗祖上人ご自身がこの身語正の信心を、そのご生涯を通して歩かれたお姿の中に明らかに見せていただく通り「いつでも」「どこでも」「誰にでも」実行可能な信心なのです。
 「身語正」という仏教の信心には伊達も飾りもいりません。本当に必要なものは「仏ひとつを目当てにして」「ただナム……とすがるだけ」でいいのです。
 「身語正教学」が体系的に伝えようとしているところも、まさにそこにあります。文字面を怖れず、しっかりと学んで下さい。

こすもす 268号より


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