平成19年・バックナンバー

平成19年10月
講座「身語正教学」[3]

中山身語正宗の信心の醍醐味は、至心にみ仏にすがりきる「おすがり」と、そのわたしたちのまことに応えて下さる時のみ仏の〈おじひ〉にあるとされます。〈おじひ〉のままに実践・実行せよといわれる「身語正」の信心とは、一体どのようなものであったのか。
今回はそれをご一緒に学ばせていただきましょう。
学びの森


〈おじひ〉のままに実践・実行する信心「身語正」
 中山身語正宗の信心が「仏教の大道をゆく信心である」という意味については、前回お話した通りです。
 では、いよいよ『身語正教学』として体系化された時の「身語正」という信心がいかなるものであったのかについてお話を始めることにしましょう。

 「身語正」という仏教の信心は、身語正教主「根本大悲の親」が宗祖覚恵上人に直々(じきじき)託され、この世に持ち出されました。では、それはどのようにして行われたのかというと、宗祖上人が物心つかれる頃、宗祖上人の身の上に「自分ではどうしようもない不自由さ」として現れてきたとき(例えば、食事をしようとしている時お箸を持った手がどうしても動かず困り果てていると)、誰かが耳元で「ナムアミダブツ、ナムアミダブツと三度唱えよ」といわれるのを聞き素直に「ナムアミダブツ」と三度唱えてみると、いつの間にか手が自由に動くようになっていた、といったことがしばしば起こったのです。
 こうした体験を通して、宗祖上人のみこころの中に「困ったことが起こったときは、ナムアミダブツと唱えて至心におすがりしよう」という思いが定着していったのです。

 そして後日(大正元年2月18日)なぜみ仏はこの自分に「ナムアミダブツ」と唱えさせられたのか。その理由が「頼む一念で至心にわたし(み仏)にすがるなら、わたしは必ず身に正しく如来の語(ことば)を授けるという形で応えてあげよう。こうした信心をお前(宗祖)を通してこの世に持ち出すぞ」といわれるところにあったことを確信されたのです。
 ですから「身語正」という信心はわたしたちが事あるごとに「ナムアミダブツという名号(みょうごう)を使って、み仏に頼む一念のまことをもってすがりぬくなら、必ずみ仏が身に正しく如来の語を授けて下さる」信心であると確信させていただくのです。
 「身語正」の信心が、このような信心であることから「身語正」の信心の「いのち」とは「おすがり」であり、〈おじひ〉であると明言されます。そこで、身語正という信心は「〈おじひ〉のままに実践、実行する信心」であるともいわれるのです。

 では、〈おじひ〉のままに実践、実行する身語正の信心とは、人としてわたしたちが自分で「思い」「学ぶ」ために何もしなくていいということなのでしょうか。決してそうではありません。本宗では、本宗の信心を「身語正とは、身に正しく如来の語を授かる」の意。「まことの信心とは、行によってみ仏からこころを授かる」もの。「即身成仏とは、身に即して仏を成ずる」。この三つのみ教えが指し示そうとしていたことは「身語正という信心は、まことの信心であり、即身成仏を目指す信心である。すなわち、み仏に向かって至心に行ずるその身には、必ずみ仏が〈おじひ〉を授けて下さる。その行願を通してわたしたちはみ仏からこころ(正しい智慧と慈悲心)を授かり、一人ひとりがそれぞれ与えていただいた身体を即して、み仏の姿を現し出そうとする信心である」と示していただいているのです。ここのところをしっかりおさえておきたいものです。

こすもす 267号より


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