平成19年・バックナンバー

平成19年6月
あなたが、あなたの「いのち」を生きること [11]

人間にとって最も大切なものとされてきた「分別」の心は、仏教では「正しい智慧」を阻害するものだとみなされてきました。そして、仏教でいう真の智慧とは、「無分別」の心から生まれるものだとされたのです。
では、その「無分別」の心とは何なのでしょうか。
学びの森


「真の智慧は『無分別』の心から」という仏教の逆転の発想
 仏教において最も理想的な生き方とされる「執(とら)われのない」生き方とは、「やわらかな心(ものの見方、考え方)」の持ち主によって生きられる生き方であると確信されています。では、わたしたちは、仏教にいう「やわらかな心」を一体どのように自分のものにしていったらいいのでしょうか。

 仏教では、人間の心(ものの見方、考え方)には、「分別」と「無分別」という二つがあるといいます。「分別」とは、物事を判断する時、一つの基準を定めて、その基準を踏まえて、例えば「善・悪」や「可・否」を定めていくものの見方、考え方のことをいいます。実は、わたしたち人間の判断は、この「分別」を基としていますし、この「分別」の基準がそれぞれの場所や時代によって定まっていると信じて、それに沿うか否かが人間としての生き方を決めることになると確信してきました。これに対して「無分別」とは、一つの基準を定めようとしないものの見方、考え方のことですから、人間は一般的にこうしたものの見方、考え方から生まれてくる「生き方」は、決して正しいものにはならないはずだと思い込んできたのです。
 ところが仏教では、こうした考え方を逆転させます。そして仏教では、「無分別」というものの見方、考え方は、「ありのまま」を「ありのまま」に見る本当に勝(すぐ)れたものの見方、考え方なのだ、というのです。

 ではなぜ「無分別」が勝れたものの見方、考え方になるのでしょうか。
 仏教においては、この世に存在するすべての物・事は、人間の目には「よいもの」「悪いもの」、「都合のいいもの」「都合の悪いもの」さまざまに見えるとしても、本来「あるべくしてある」ものばかりだといいます。なぜなら、この世に存在するすべての物・事は、「因縁所生(いんねんしょしょう)」のもの(しかるべき因と縁の結合したことによって、起こるべくして起こってきたものである、という意味)だから、というのです。ですから、本来こうしたすべての物・事に対して「分別」されるべき一つの基準など立てられるはずはないのです。しかし人間は、なぜかしら一つの基準を立てて「分別」し、その「分別」の善し悪しを論じ合ってきただけだというのです。その結果、「よい」とされたものは守り通されねばならず、「悪い」とされたものは排除されねばならないと決めつけられることになったのです。こうして人間の心の中に「執われ」が根付くことになり遂には「固執」によってがんじがらめにされた心が生まれてしまうのです。この心は、「やわらかな心」とは、正反対の心です。

 「やわらかな心」は、ですから固執にがんじがらめになった心からは生まれてきません。「やわらかな心」は、執われのない、「ありのまま」を「ありのまま」に見ることのできる「無分別」の心から初めて生まれてくるのです。こうして、仏教では、人間にとって常識的には「最もよいものの見方、考え方」であると思われてきた「分別」の心を捨てて、「無分別」の心を自分のものにすることによって、真に「やわらかな心」を得ようとしそのための工夫を重ねてきたのです。この逆転の発想を仏教者は学ばなくてはなりません。

こすもす 287号より


学びの森・バックナンバーはこちら

サイトマップ ページトップへ

Copyright 中山身語正宗 All Rights Reserved.