平成19年・バックナンバー

平成19年5月
あなたが、あなたの「いのち」を生きること [10]

わたしたちが仏教の中で説かれる「慈」「悲」行を正しく実践していこうとするならば、必ずその裏付けとなるべき「智慧(ちえ)」について、正しい認識を持っておかねばなりません。そこで今回は、この「智慧」について今一度ご一緒に考えてみたいと思います。 学びの森


仏教でいう「智慧」とは、執われないものの見方・考え方
 仏教にいう「智慧」とは、わたしたちが普通に「知識」といっているものではありません。「知識」とは、いろいろな事物に関する「情報」のことであって、「知識が豊かな人」とは、こうした情報をたくさん持っている人のことです。そして、この情報は、しっかりした「記憶力」によって保持されるものだと考えられてきました。ところが近年「情報機器」の発達に伴い、人間が記憶できる何倍もの情報を、それも実に正確に保持できるようになりました。その結果、今日ではたくさんの情報を人間の能力としていかに多く保持するかというより、情報機器に保存される多くの情報を「いかに活用するか」が問われるようになってきました。そして、実はこの新しい問いかけに有益に対応するために必要なものこそ「智慧」であったと再確認されるようになってきたのです。
 わたしたちは、仏教でいう「智慧」を「ものの見方、考え方」であると捉えてきました。そして、情報機器の発達は、人間にとって一番大切なものが、いかに多くの情報を有益に活用しうる「ものの見方、考え方(すなわち智慧)」にあることを確信させてくれることになったという訳です。

 では、仏教の「智慧(すなわち、ものの見方、考え方)」とは、どのようなものなのでしょうか。仏教では、それを「縁起」というものの見方、考え方であるといいます。
 仏教の考え方では、この世にあるすべての物事は、直接原因としての「因」と間接原因としての「縁」によって生じたもの(果)であるといいます。そして、この世のすべての物事は、「今」それぞれに「果」として存在しているのですが、それはそっくりそのまま次の物事を生み出す「因」となりうることから、その「果(今、現象として現れ出ているすべての物事)」は、永遠に同じ形でとどまり得るものではありません。そのため仏教では、今ここに「果」として現れ出ているすべての物事を「仮(け)」というのです。「この世のすべては、夢・幻(まぼろし)の如し」といわれるのは、この世のすべての現象(物事)を「仮」と見る仏教の考え方に賛同するからこそのことばであったのです。
 この世のすべての物事が「仮」であるならば、決して執着してはなりません。執着すると「それが見る間に消え去り、あるいは変貌(へんぼう)していった時、必ずそこに失望を味わう」ことになってしまいます。
 すべての物事は、時々刻々に移り変わっていくからこそ「本当の意味」があるのであり、移り変わることこそわたしたちにとって最も大事なことだったのです。

 仏教の「智慧」は、このように執(とら)われないこころ(ものの見方、考え方)を土台として、それ故にこそわたしたちにとって、「よりよいもの」を実現させるための「日々の精進、努力」の大切さを痛感させてくれるのです。
 あなたが、あなたの「いのち」を生きる根底として持ち届けるべき智慧とは、仏教においてはこのように「執われのない」自由で、生き生きとした「いのち」の活力に溢(あふ)れた生き方を生み出し、支えてくれるものの見方、考え方だったのです。

こすもす 286号より


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