平成19年・バックナンバー

平成19年4月
あなたが、あなたの「いのち」を生きること [9]

 前回は、「慈の実践者」として生きるとは、どういうことなのかについてお話しました。そこで今回は、「悲の実践者」として生きるということは、どういうことなのかについてお話することにしましょう。「悲」の心と行いは、実は本宗の信心の要の一つなのです。


常に自分の感受性を磨き、育てながら「悲の実践者」に
 「悲」とは、相手の苦しみに対する深い共感(あわれみの心を興(おこ)すこと)をもって、相手の苦しみを除くためにわたしのできる精一杯を尽くさせていただくことをいいます。
 「身語正」という仏教の信心をこの世に持ち出そうとされた身語正教主(本宗の教え主)は、ご自身のことを「根本大悲の親」と名告(なの)られています。このお名前の意味するところは、このみ仏の願いが、「大悲の働き、すなわち悩み、苦しむ一切衆生のその悩み苦しみにこのみ仏が深く共感して下さり〈助けずにはおかんぞ〉と力強くわたしたちに働きかけることこそ、わが使命なり」といって下さるということです。そしてこのみ仏は、わたしたちに対して、「お前達一人ひとりもそんな心で行動して欲しい」と願われているということです。そこでわたしたちは、み仏がこのわたしたち一人ひとりに懸(か)けて下さるこの願いを
「悲の実践者たれ!」
という呼びかけとして受け止めさせていただこうとしています。

 では、「悲の実践者になる」ということは、どういうことでしょうか。
 「悲の実践者」になるためには、悩み、苦しむ人々に深く共感できる豊かな感受性を具(そな)えていなくてはなりません。実は、この感受性は、人間にとって常に磨いておかなければ豊かに具わることはできないものなのです。では、どのように磨けばいいのかといいますと、悩み、苦しむ人々の「悩み」「苦しみ」をありありと実感できるようなイメージを自分の中につくる練習をすることです。
 「イメージする」ということを軽く見過ごしてしまう傾向を、もしわたしたちが持っているとしたら、もう一度立ち止まって、そんな自分の姿を振り返ってみて下さい。いろいろなことを「ありありとイメージ」できない時、自分の精神性がとても貧弱になってしまっていることに気付かれるに違いありません。
 「イメージする」ということは、創造性を高め、人間性を豊かにし、夢や希望を自分のこととして、やさしさや思いやりを育(はぐく)んでくれます。

 他人(ひと)の悩み、苦しみを深くイメージできるようになったら、必ずその他人のために「自分のできることなら精一杯させてもらいたい」という思いも自然に起こってくるはずです。こうした思いが自分の足下から一つひとつ具体的な行動になって現れ出てきた時、わたしたちは「悲の実践者」としての第一歩を踏み出すことになるのです。
 仏教では、こうした「慈」「悲」の実践が本当に正しい、すばらしいものになっていくためには、必ず正しい「智慧(ちえ)」の裏付けをもたねばならないといいます。そうでないと、その「慈」「悲」の実践が、情に流されるものになってしまうからです。

 では、仏教でいう「智慧」とは何だったのでしょうか。わたしたちはそれを「仏教的な正しいものの見方、考え方のことだ」と考えてきました。人間が「仏(すなわち覚った人、覚者)」になるということは、まさしく人間がこの「仏教的に正しいものの見方、考え方」を自分のこととして身につけることに他なりません。
 「智慧」に裏付けられる「慈」「悲」の実践という考え方は、今一度味わい直しておきたいことです。  

こすもす 285号より


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