学びの森バックナンバー11
平成18年・バックナンバー

平成18年11月
あなたが、あなたの「いのち」を生きること [4]

 あなたが、あなたの〈いのち〉を本当に生きるためには、何が必要なのでしょうか。仏教の中には、「発(菩提)心」とか「お行」とか、「懺悔」ということが説かれます。今回は、それらのことばの意味を通して「仏教的」な行いについて考えてみましょう。


まずは、正しい生き方を身につけようと願う「発心」から
 「身語正(しんごしょう)」という仏教の信心(法門)は、僧俗の区別なく「自ら行ずる」信心であり、その行願を通して「み仏からこころを授かる」信心であった、と前回ご紹介させていただきました。
 では、「み仏からこころを授かる」とは、どういうことなのでしょうか。ここでは、「み仏から仏教的に正しいものの見方、考え方とはどういうことかを教えていただき、自分の身につけること」だと理解させていただくことにしましょう。

 人間の行動というものには、大きく分けると「本能的(すなわち、直感的で条件反射的)」な行動と、人間としてのものの見方や考え方を踏まえた「分別的」な行動とがあります。そして、「人間らしさ」といわれるものは、この内の「分別的」なものを通して出てくるものに対していわれるのです。
 「隣の芝生は青く見える」という分別もその一つです。人間は古今東西どこの国の人でも「他人のものはよく見えた」らしく、これに似たことわざが世界中にあります。こうした分別的なものの見方・考え方を「智慧(正しいものの見方・考え方)」からは、「誤ったものの見方・考え方」だといわれてきました。そのため、「人間は応々にしてそのようなものの見方・考え方をするけれど、そのようなものの見方・考え方は間違っているので、しないようにすべきだ」と教えるようになってきたのです。
 そして仏教では、普通成長の過程で身につけることになる「人間らしい分別」の根底にあるものが「貧(読み:とん,意味:むさぼり)」「瞋(読み:じん,意味:いかり)」「痴(読み:ち,意味:仏教的な目から見ると間違ったものの見方・考え方)」であるとしてその結果「間違ったものの見方・考え方」になっているとするのです。

 こうした仏教の立場からは、それ故「人間は、改めて正しいものの見方・考え方」を本当に身につけていくために「学び直さねばならない」とされるのです。
 こうした仏教の立場は、「あなたが、あなたの〈いのち〉を本当に生きるため」には、正しい学び方を必要とするものだ、という生き方が明らかにされてきます。
 仏教において、自分の〈いのち〉を正しいものにするために学び直そうと決意することが「発(菩提)心〈すなわち、正しいものの見方・考え方の身についた自分になりたいと願う心を発(おこ)すこと〉」であり、その心を実際に発動させて、目的に向かってコツコツ努力を積み重ねていくことが「お行(仏に向かって行くこと)」といわれるのです。

 実際にこうした決意が自分自身の中に発(おこ)ってくるためには、現在の自分に対する素直な反省(これが仏教的な懺悔です)がなくてはなりません。「信心は、心底からの懺悔があって、初めて始まる」といわれるのは、このためです。だからこそ、仏教では、「自分を見つめ直しなさい」と強調されるのです。
 ところが、現実の人間の多くは、これがとてもにが手のようです。そのため、わたしたちは「自分だけは違う」といい、「わたしは正しい」などと主張し、自分を買い被り、伊達や飾りにうつつを抜かすことになってしまうのですね。

こすもす 280号より


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