大正6年、覚恵は仏告に従い、坊住山の山頂霊々石の上で毎日般若心経300巻を唱えるという、いつまでという期日を示されていない大行願に入ります。冬は身を切られる様な寒風にさらされ、雪の日は雪ダルマ、雨の日は濡れネズミとなり、また台風で危険な時も、発熱のため雪の中で意識を失い倒れるような時でも、み仏から休むことは許されませんでした。
そして、み仏のお許しが出てこの行を成満した時には、ちょうど三年三月の歳月が経っていました。覚恵はこの大行願が自己を修め、衆生済度のための根本行であったことを喜ぶと共に、立教の際の万民を救うという仏告が自らの願いとなったことを自覚するのでした。
そのような覚恵を頼って訪れる人々は様々でした。当時、業病 (ごうびょう)といわれた「ハンセン病」や「肺結核」におかされ救いを求めてくる人に対しても、覚恵は一緒に食事やお行をされるのでした。世間から忌 (い)み嫌われた病人にとって、覚恵の姿はみ仏の姿と同じでした。
また、罪を犯した者にも差別なく接して人に役立つ人間に育て上げていきます。神仏を信じない者や貧しさのあまり行くあてもなくお山に登ってきた者に対しても、覚恵は、「一切衆生は、皆み仏の子」として救いの手を差しのべるなど、授かる仏告のまま多くの人を仏道に導いていきます。 |