中山身語正宗のあゆみ
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「宗祖覚恵上人」略伝
[5]布教のための進路・み仏のお膳立て
 貧しい生活は続くものの、松太郎を理解し、慕(した)う信者が一人また一人と増えていきます。
 しかし、さかのぼること明治41(1908)年より、当時の政府は新たな宗教の立宗を認めない政策をとっていました。
橋
高野山の奥之院参道中ノ橋の下で津田実英師に
救われ、得度の道はひらけた

 そのため、み仏は松太郎に託した願いを実現させる道として、大正2年に高野山(真言宗)に登るように催促されます。
  2度3度と矢継ぎ早の催促についに意を決した松太郎はふところに五銭銅貨1枚をしのばせ、約2ヶ月の間、まともな食事もできずに、言葉では言い表すことができない苦難の旅を経て、やっと高野山にたどり着きます。しかし、入寺を求める松太郎がまともに対応されることはありませんでした。仕方なく3日間、高野山奥之院でお参りをするも、それ以上の長居は許されません。
ついにあてもなく息も絶え絶えに奥之院参道にある中の橋の下で念仏を唱えていたところを津田実英師に助けられます。
 そして、大円院の藤田寛応師に預けられ、本願院住職長谷川覚明師を戒師(かいし)として剃髪得度(ていはつとくど)、僧名「覚恵」と授かるのでした。(以下、「松太郎」を「覚恵」と表記します)こうして7月、高野山より帰郷の途につくことになります。

 大正4年にまたも妻マツに先立たれた覚恵は、翌年に八坂マツとの再婚をみ仏より授かります。その後、仏告に従い再び高野山へと登り、1日そば粉1杯という粗食に耐えながら、210日間の加行(けぎょう)を生死をかけて成満します。引き続き、教師試補検定にも合格し、万人救済のための布教教化に必要な僧侶としての資格を取得し終えたのです。



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